満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


by kinen330

神戸地裁

「これで日本人になったと感じ、とても嬉しくて思わず涙が出ました」

2002年以降、全国15の地域で中国残留孤児国家賠償請求訴訟が争われました。
兵庫原告団が争った神戸地裁は唯一勝訴しました。
今年はその判決から10年。明日4日には神戸で10周年記念集会が開催されます。

「国は残留孤児の人権を返せ!」
“日本の地で、日本人として、人間らしく生きる権利”を訴えた裁判でした。
神戸は国の責任を明確にした判決が下った唯一の裁判でした。
残留孤児が生じた原因が政府の施策によるものであり、政府には残留孤児の消息の確認・早期帰国に向けた大きな政治的責任があったと指摘。また、日本社会で自立して生活するために必要な支援をする法的義務があったとしました。

原告団は涙を流して喜びますが、国はすぐ控訴します。
2007年、全国の裁判が長引く中で国は新しい支援策を提示。その内容に納得できない兵庫原告団は受け入れに反対でしたが、全国の原告団と歩調を合わせる苦渋の決断をし、その支援策を受け入れる形で裁判は終結しました。

10年経過した今、中国帰国者たちはそれぞれ10年歳を重ね、介護の問題や依然として立ちはだかる言葉の壁、2,3世の生活など多くの問題に直面しています。
それでも、二つの国で生きた自分たちが日中友好のかけはしとなって役に立ちたいと願っています。

明日の集会では、原告団の元残留孤児の皆さんが、自らの体験や思いを訴える朗読劇が上演されます。
勝訴判決から10年の今、彼らが社会に問うものは何か。
私たちはしっかりと耳を傾けなければなりません。
この問題の終わり方は、まだ見えていないのです。


(朗読劇「私たち『何じん』ですか? part2」のシナリオと、10周年記念集会の案内状を参考にしました)
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# by kinen330 | 2016-12-03 19:26

7人

S小学校6年生4人と若い担任の先生が来館しました。

青少年義勇軍のコーナーのガラスケースに、当時の県内各町村への「割当表」という資料があります。
ノルマです。今年度はこの学校からは何人出しなさいという。
S小学校は7人、と書いてありました。

「先生、今年は7人出してくださいね。ノルマを達成できないとボーナス減りますよ。」
「じゃあKくん、行ってくれよ。でも4人じゃ足りないから5年生にも声かけなきゃ。」
「Tくん家はお母さんが反対してハンコもらえないから説得に行ってください。」
「はあ。」
「結果、送り出した子どもたちが満州で何人か亡くなるんです。」
一緒にいる子どもたちの顔を見て、先生、顔をゆがめました。
「うわ~、そういうことかぁ。」

先生に勧められて満州へ渡った少年たちが大勢いました。
戦後、責任をとって辞職した先生もいました。
行った人も送り出した人もいる。
これが満蒙開拓という国策です。

歴史が今に語りかけてくるものとは。
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# by kinen330 | 2016-11-18 18:20

問い続ける

「あの時、誰かの胸にすがって思いっきり泣きたかった・・・」

今日の語り部定期講演は、愛知県の元開拓団員Hさんが来て話をしてくださいました。
7人家族で渡った満州でしたが、終戦後の収容所生活で家族全員亡くなり、一人きり11歳で引揚げてきます。
終戦の翌年の7月7日、両親が奇しくも同じ日に亡くなります。Hさんと妹、弟の幼い3人の子どもを残して。
Hさんは長男でした。すがる人もなく、涙をこらえたのか。出なかったのか。

自分よりもっと辛い体験をした人がいる、心の傷を背負いながら生きている仲間たちに悲しい思いをさせてはいけないと、満蒙開拓のことはしばらく語らなかったそうです。

「国策とはいえ、満州の土地を二束三文で買い上げた。戦後、その報いを受けなければならなかった。関東軍を後ろ盾に開拓団もいばっていたんです。積年のうらみが開拓団にむけられたんです。」
開拓団の立場にも正面から向き合います。
「“侵略者の子ども”という思いがあるから中国へは二度と行きません。他人の土地に土足で入ってやりたい放題やったんです。」

当人が言う加害の言葉の重みを、また改めて感じました。
社会から責められる以上に自らを許さず責任を問い続け、悲しみも抱えながらこの歴史に向き合ってこられたHさん。
その姿から、真の平和を願う気持ちが伝わってきました。

「私の戦後はまだ続いているんです」
あの時、泣けなかった少年は、まだ泣けずにいるのでしょうか。
これからは私たちも一緒に問い続け、一緒に歩んでいきたいと思います。
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# by kinen330 | 2016-11-12 19:54

10万人の意味

「特に若い人たちに言いたい。どうかこの平和をいつまでも守ってください。」

語り部Kさん、昨日は特に力強くこの言葉をおっしゃっていました。
目尻には涙が光っていました。

「こんなに平和な日本ができたんですよ。敗戦国である日本が世界有数の平和な国になった。どうしてあの時、自決をしてしまったのか・・・。」
15歳の時の集団自決を、Kさんがこれまでどんな思いで抱えてきたのか。

引揚者への差別。「ひと旗あげようと思っていったんだろう」「開拓団も侵略者だった」という揶揄。そして何よりも、大人たちが決断した集団自決ではあったものの、加担したという事実。取り返しのつかない、事実。
Kさんの額に残る深い傷は、年月が経過しても決して消えません。
その傷に、かつての満州の悲劇が、人々が担わされたものが、背負い抱えてきたものの重さが刻まれています。

本日、来館者10万人を迎えることができました。
個人が背負い胸の中に閉ざしていたものを、私たち社会の歴史として受けとめる場。
学び、考え、伝える場。
さまざまな人々と貴重な出会いがありました。
10万人もの人が降り立ったプラットホーム、この記念館で、これからもたくさんの人々をお迎えしたいと思います。
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# by kinen330 | 2016-11-07 20:10

民衆の

歴史とは人と人との関係を読み解いていかなければならないのだと感じた。(中略) 民衆の目線で、加害側、被害側、両方の立場で歴史を考え、これからの「平和」について考えていければいい。

↑ 本日来館、16歳、男子高校生の感想メッセージです。

読み解けないことがまだたくさんあります。
この歴史の検証は始まったばかりかもしれません。
でもこの歴史の検証は、私たちの手でやりましょう。
私たち民衆の手で。
それが力となり、未来へつながるはず。
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# by kinen330 | 2016-11-03 19:11