水杯

中国人の襲撃にあう。
ソ連軍も攻撃してくる。
「関東軍は何をしとるんだ」
父親の期待は疑念に変わります。

人々は馬や鶏などの家畜を放し、本部へ集結となりました。
家を出る前、Mさん一家は砂糖水で「水杯(みずさかずき)」。
覚悟の杯でした。
まだ幼い姪が「もっとちょうだい」と言いました。
「じいちゃんが悪いんじゃない、じいちゃんを恨むなよ」
父親は涙を流しながらもう一杯、砂糖水を作りました。

本部で団長が訓示をしている時、今度は満州国軍が襲ってきます。
満州国軍の反乱ーーー。
男たちは銃で応戦。
子ども達は奥の部屋へ入れられます。
「何かあったらおじさん達が楽に殺してやるで。」

多くの犠牲を出し、開拓団は解散。
自決をするため松花江へ歩く行列。
隣の開拓団に身を寄せる人々。
結局、終戦時在団者の8割が亡くなりました。

今日のMさんの「語り部」講演のテーマは“満州棄民”。

誰も助けに来てくれない。
助けを呼ぶ手段も分からない。
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# by kinen330 | 2017-04-23 19:09

大きな志

―「親父は口減らしで、騙されて満州へ行ったんだ」
こう言うと母親からこっぴどく怒られ、
それからは二度と満州のことは口にできなかった ―

父親が長野県の開拓団だったという男性Oさんが東京から来館されました。
ご自身は戦後生まれ。
名簿には、お父さんの前の奥さんと子どもの名前がありますが
2人とも満州で亡くなっています。
お父さんは「満州のことはひと言もしゃべらなかった」そうです。

戦後、一人帰国したお父さんは標高の高い荒地に再入植。戦後開拓です。
ようやく切り開いた農地も昭和34年の伊勢湾台風で壊滅的な被害を受けます。
49歳、若くして病気で亡くなりました。Oさんが中学1年生の時でした。

Oさんの母親は戦後再婚した奥さんということです。
夫が満州のことを話したがらない訳も、心の奥に残っている傷も、
よく理解されていたのでしょう。
「お父さんみたいに大きな志を持ちなさい」と言って子どもたちを育てました。
その後Oさんは商社の技術員として中東をはじめ世界中を飛び回りました。

戦後開拓地を地域の人たちは「開拓」と呼びました。
弟や妹たちは今でも使いたがらないそうです。
でもOさんは自分の生まれたところを「開拓」と呼びます。
「自信を持って使え」と言ってやります。
Oさんは「開拓」に誇りを持っています。
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# by kinen330 | 2017-04-08 18:58

忘却

昭和34年、「未帰還者特別措置法」が制定されました。

「未帰還者の大多数が終戦前後の混乱期に消息を絶ち、今後調査究明を行ってもこれ以上その状況を明らかにし得ない実情にかんがみ、留守家族の心情をも斟酌のうえ、厚生大臣が民法第三十条の宣告の請求を行い得ることとするとともに、その遺族に対し弔慰料を支給することとする等、特別の措置を講ずる」

かくして、3万人余の「未帰還者」のうち中国に残されていた約1万3500人が「戦時死亡宣告」され、戸籍が抹消されました。
また、消息が分かっていた人で帰国していない人々は「自己意思残留者」と認定。未帰還者名簿から削られます。
“存在しない人たち”になったのです。
社会からも見えない存在となり、忘却の彼方へ。

この「戦時死亡宣告」は国交正常化後の帰国にあたっての障壁になります。

中国残留邦人。
日本と中国は国交がなかったから仕方なかった、ではすまされない。
どれだけの人たちの人生が翻弄されたか。
そして、この歴史が現在に問いかけるものとは。
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# by kinen330 | 2017-04-06 19:12

大切なもの

「やっぱり日本の発達より 人の命が大切だと思った。」

春休み。子どもたちも結構来てくれます。
愛知県から来てくれた小学生、11歳の男の子の感想メッセージです。

本当に大切なものは何なのか。
この言葉を噛みしめましょう。
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# by kinen330 | 2017-04-03 18:18

血眼になって

「もっと血眼(ちまなこ)になって捜すべきでしょう」

記念館事務職員Mさん。
満州のことや開拓団のことなどほとんど関心がなかった彼女は
来館者のお話しを聴いたり寄贈本の整理などをする中で
少しずつこの歴史について知ることになりました。

1981年から始まった残留孤児訪日調査の様子を記録した写真集が寄贈されました。
身内が見つかり涙の再会を果たした人。
何人面接しても身元が判らず中国へ帰っていく人。
悲喜こもごもの様子が映し出されています。

約2週間の訪日肉親捜し。
その間、京都などへの観光もあったようですが、かえって残酷にも思えます。

「もっと血眼になって捜すべきでしょう」

その通りだ。観光なんかでごまかさないで。
もっと血眼になって捜すべきだった。
国の責任のもと、もっと早くから。
当時でさえ「もう10年早かったら」と山本慈昭さんが嘆いています。

未だに自分の名前や出身地も分からない、未判明の帰国者が大勢います。
せめてその存在を忘れない社会でありたいと思います。
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# by kinen330 | 2017-03-30 19:27