不穏な空気

あの島も玉砕。この島も玉砕。
敗けたとは言わんのだな。
玉が砕けると書いて・・・要するにやられちゃったんだよ。
昭和20年になると使用人の「満人」がだんだん言うことを聞かなくなってきた。
あいつらは日本が戦争に敗けることを知っとったんだな。
大切にしとるつもりだったんですがねぇ。

――満州の開拓団にも不穏な空気が漂い始めたあの頃。

戦争なんてもんはしない方がいいですね。
勝った方もあんまりいい気持ちはしないと思いますよ。

87歳の語り部Sさん。
小学生の前で話をしてくれました。
今夜もお経を唱えながら眠りにつくのでしょう。
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# by kinen330 | 2017-01-20 18:31

やる瀬ない念

「満蒙開拓」 このことば、この文字に今もなお、やる瀬ない念がかき立てられてなりません

年賀状に添えられた手書きの文字。
今月末には96歳になられるI先生。
青年学校の教師をしていましたが、薦めもあり青少年義勇軍の幹部として190人の少年たちと共に昭和19年に渡満しました。

義勇軍1個中隊には中隊長を含む4人の大人が幹部として配属されました。
I先生は、子供たちと寝食を共にする義勇軍という形態に教育の理想を抱いたといいます。

はじめに入った勃利訓練所は15中隊、総勢3千人以上を擁する大訓練所でした。
軍事・教学・農事の諸訓練や行事など、事あるごとに点数や順位を公表し中隊同士を競わせます。昭和20年2月に開催されたマラソン大会で、I先生の中隊は初年次ながら優勝し、所長より賛辞が贈られました。
そして4月、新設の東安訓練所へ移動。ソ満国境、興凱湖のほとりでした。
「終戦間際にそんな国境沿いに入れられたんですか」という私の問いに、I先生は「入れられた、という感覚はなくむしろ誇りだった。優秀な中隊だから選ばれて行ったんだと思っていたねぇ。」

ソ連侵攻後、悲惨な逃避行や収容所生活で108人が亡くなりました。
I先生は途中ソ連兵に連行され、子どもたちと離ればなれになってしまいました。

引揚げた後、一旦退いた教職に請われて復職。教員生活を終えてからも地域史編纂事業などに携わってこられました。

同じく90を過ぎた奥様と日当たりのいい静かなお宅で過ごされているI先生。
記念館から届いた年賀状に蘇る「満蒙開拓」という記憶は、穏やかな年始に苦い影を落としてしまったのかもしれません。

今もなおかき立てられるやる瀬ない念、とは。
静かに語るI先生を思い出しています。
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# by kinen330 | 2017-01-07 11:39

あんちゃん

親を亡くした兄妹。
逃避行の途中で川を渡る時、
「あんちゃん、あんちゃん」と呼ぶ妹を置いてきた。

彼が背負った痛みを、誰がどう癒すことができるのでしょうか。


このような歴史があったことを知ること。忘れないこと。
そこから始める。
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# by kinen330 | 2016-12-18 19:00

ほろほろと

今日、93歳と91歳の可愛らしいおばあちゃん姉妹が来館。
お二人とも元教師で
お二人とも当時「分村」を出した村の国民学校に勤務していました。

「村役場の人がまた勧めに来た、という話をよく聞いた」
「みんな半強制的に行かされたんだに」
「村のお偉いさんたちは必死だった」
「私は高等科女子組だったけど、男子組の先生は割当てがあって大変だったようだ」

次々に繰り広げられる貴重な昔話し。

「引揚げて来た奥さんが丸坊主で。
髪の毛が1センチくらいで。
そうしないと帰って来れんかったんだなあ。
迎えに行って涙が出た」

91歳のおばあちゃんの旦那様は元関東軍でした。
「橋を壊して行け、っていう指示があったんだって。
だもんで開拓団の子どもたちが橋を渡れんかったのよ」

ソ連軍侵攻で国境近くにいた関東軍も南へ後退。
上からの指示は、ソ連軍が追って来られないよう「橋を壊して行け」でした。
関東軍を追いかけるように逃避行した一般の人々は、
橋が壊されたため川を渡らなければなりませんでした。

お二人の記憶からほろほろとこぼれ落ちてくる言葉を
なんとかとっておきたいと書き留めています。
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# by kinen330 | 2016-12-08 19:35

神戸地裁

「これで日本人になったと感じ、とても嬉しくて思わず涙が出ました」

2002年以降、全国15の地域で中国残留孤児国家賠償請求訴訟が争われました。
兵庫原告団が争った神戸地裁は唯一勝訴しました。
今年はその判決から10年。明日4日には神戸で10周年記念集会が開催されます。

「国は残留孤児の人権を返せ!」
“日本の地で、日本人として、人間らしく生きる権利”を訴えた裁判でした。
神戸は国の責任を明確にした判決が下った唯一の裁判でした。
残留孤児が生じた原因が政府の施策によるものであり、政府には残留孤児の消息の確認・早期帰国に向けた大きな政治的責任があったと指摘。また、日本社会で自立して生活するために必要な支援をする法的義務があったとしました。

原告団は涙を流して喜びますが、国はすぐ控訴します。
2007年、全国の裁判が長引く中で国は新しい支援策を提示。その内容に納得できない兵庫原告団は受け入れに反対でしたが、全国の原告団と歩調を合わせる苦渋の決断をし、その支援策を受け入れる形で裁判は終結しました。

10年経過した今、中国帰国者たちはそれぞれ10年歳を重ね、介護の問題や依然として立ちはだかる言葉の壁、2,3世の生活など多くの問題に直面しています。
それでも、二つの国で生きた自分たちが日中友好のかけはしとなって役に立ちたいと願っています。

明日の集会では、原告団の元残留孤児の皆さんが、自らの体験や思いを訴える朗読劇が上演されます。
勝訴判決から10年の今、彼らが社会に問うものは何か。
私たちはしっかりと耳を傾けなければなりません。
この問題の終わり方は、まだ見えていないのです。


(朗読劇「私たち『何じん』ですか? part2」のシナリオと、10周年記念集会の案内状を参考にしました)
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# by kinen330 | 2016-12-03 19:26