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Hくんの家族史

残留婦人で日本へ永住帰国した祖母のもとへ行くことになった16歳のHくん。
多感な年頃だった。
すでに義務教育の年齢は過ぎていたが、中学1年生に「入れられた」。
自分より身体の小さい年下の子どもたちに
「中国人、くさい」「汚い」といじめられ、
悔しいけれど言い返す言葉も分からず、つい手が出てしまうことも。
しかし、当時の担任はいじめた生徒を集め、一人ひとりにHくんに謝るよう指導した。
「本当だったら先に手を出した私の方が悪かったんですよ。」
かばってくれた先生とは、今でも時々会ってお酒を酌み交わす仲だそうだ。

さて、そんなHくん。日本に来て30年が経ち、今では娘二人の父親である。
「激動の歴史背景下でのH家の家族史をまとめてみようと思い立ち」、
自分の家族のルーツを調べ、冊子にまとめたものを今日、持参してくれた。

記念館にメールで問い合わせが来たのは3年前。
その時には、いつ、どこの開拓団で渡満したのかなど、ほとんど分からない状況だった。
終戦後に祖母の妹が亡くなった場所から、近くにあった出身県送出の開拓団ではないかと予想し、
県や厚労省などあちこちに電話をかけ、資料を取り寄せたり送ったり・・・。
不審がられたり、「もうやめたら?」という親族もあった。
しかしHくん、ついに開拓団在籍者名簿に辿り着き、引揚者記録もゲット。
曽祖父の軍歴証明まで手に入れた。
個人情報保護のため、情報開示には何かと証明書類が必要な昨今。
本当に苦労しただろうと想像する。

出来上がった冊子は、家族それぞれの移動が年表に分かりやすく整理され、
家系図あり、地図あり、写真あり。
何といっても、祖母から昔聞いた体験談を母親から聞き取った回顧録。
4人姉妹の長女だった祖母(当時13歳)は妹たちを引き連れて必死の逃避行をするが、
一人亡くし、結局3人は離散し中国人の養女となる。
奇跡的に終戦の翌年に引揚げることができた末の妹が
何通ものお手紙を寄せてくれて
当時の様子や戦後の苦労などを教えてくれたという。
彼女の証言が、この家族史に厚みをもたせている。

懸命に生きたH家の人々のかけがえのない記録だ。

高校生になった娘には、最近「お父さんの日本語、変」と言われるようになったという。
多感な年頃だ。
でも、いつか大人になった時、家族の歴史を知ってほしいと願っている。


# by kinen330 | 2024-03-10 20:08

しずかちゃんの卒業

序章コーナーを進むと大きな白い壁に突き当たる。
そこをスクリーンとして映し出される当時の写真や映像。
収穫した大豆を持って誇らしげに立つ人。
これから畑へ行くのか、馬車に揺られて笑顔を向ける人々の動画。
下駄をはいて綱引きに興じる女性たち。開拓団の運動会だ。
画面は次から次へと展開していく。

手に持つのは先輩から引き継がれたガイド原稿。
松川高校ボランティア部 1年生のしずかちゃん。
画面を見ながら原稿を読む。
知らない言葉。読めない漢字。
間に合わない。
ああ、もう次の写真だ。
どこを読めばいいのか分からなくなりパニック。
プレッシャーと不安とくやしさであふれてくる涙。

そんなしずかちゃんも、2年生の夏頃には身振り手振りでガイドをするようになった。
先日の引継ぎ式には、後輩たちを前に堂々と自分の言葉で語りかける。
「伝えたいことを工夫して簡潔に言うことを心掛けた」とのアドバイス。

高校生たちの成長ぶりに、毎年感心させられている。
知識を増やすだけではなく、社会性も育まれ、人として成長していく。
そんな先輩たちの背中を見てきた後輩たちが、
また、自分なりのガイドに挑んでいく。

今日はしずかちゃんたちの卒業式。
まだ冷たい北風だけど、春らしい陽射しが青空を映し出している。

# by kinen330 | 2024-03-02 14:24

ハルエさんの生き様から

2013年7月27日。
記念館語り部定期講演第2回目は、岐阜県黒川村開拓団の佐藤ハルエさん。
当時88歳。
小さい体ながら背筋をシャキンと伸ばし、大きな声で、堂々と語った。
開拓団の人々を守るために、ソ連兵の犠牲となった、あの話を。

終戦後の満州での凄まじい性暴力被害は伝え聞いていたが、
犠牲となった当事者の口から直接その話が公の場で語られることとなったのだ。
進行役としてマイクを握り、どう受け止め、どう返せばよいのか。
うろたえる自分の姿を思い出す。
「怖かった、ですね。」
そんなおぼつかない私の言葉に
「こういう事態になって、乗り切らなければ仕方がないという気持ちになりました。」
ハルエさんは哀しむでもなく、微笑むでもなく、はっきりした口調で答えた。

その後、黒川開拓団のことはメディアで取り上げられ、、広く知られることになる。
ハルエさんは数多くの取材を受けてきた。
カメラやマイクを向けられても、怯みもせず、いつも堂々と語ってきた。
「私たちは恥ずかしい目にも遭い、一歩間違えれば死ぬ境を通ったのに
 口を閉ざしていてはだめでしょう。
 悔しい体験であろうとも、残していくことが、人間の歴史じゃないですか。」
                      (2018/中京テレビ取材映像より)

一昨日、訃報が届いた。
佐藤ハルエさん、99歳。
戦後開拓地での厳しい生活も、家族や満州から引揚げた仲間たちと乗り越えてきた。
その生き様が私たちに語りかけてくるもの、
その強さの裏側にあったものは何だったのだろう。

彼女たちのことを、
彼女たちを通じて見えてきた多くの犠牲者たちのことを、
ここに刻み、伝えていかなければ。


# by kinen330 | 2024-01-20 18:50

引揚者への眼差し

「ここに来ると両親に会える気がするの」

戦後生まれのIさん。
記念館への来館は3回目か4回目?
両親は元開拓団員でした。

若き日のIさんが結婚まで考えた相手の両親との顔合わせの時のこと。
相手の母親は「ご両親は満州から苦労して引揚げて来られて・・・。」
しかし父親からは「満州で日本人はひどいことをしてきた。苦労するのは当たり前だ。」と
吐き捨てるように言われました。

戦後、引揚げてきた人たちが入植した所は、
町の中心部に住む人々が持っていた里山を
国が買い上げ斡旋した土地でした。
「自分たちの土地をただで使っている」という威圧感。
・・・決してただではありませんでしたが。

引揚者に向けられた厳しく冷たい眼差し。
目を赤くしながら話すIさんから、
当時のヒリヒリするような空気と、心の痛みが伝わってくるようでした。

悔しさと懐かしさと両親への思慕とがない交ぜになり、
普段は閉じている記憶を溶かし出すひと時。この記念館。

「また来るね」と言って、陽気なご主人やお友達と帰って行かれました。


# by kinen330 | 2023-12-20 18:57

「あの子が生きていたら、もう80になるんだなあ」

幼い妹を収容所で亡くしたTさん。
今日の語り部講話でしみじみとおっしゃいました。

泣いちゃいけない。
置いていかれてはいけない。
母と自分と妹の手首を紐でしばり、
遅れないように、はぐれないように、
引っ張り、引っ張られ、
何とか歩いて辿り着いた奉天の収容所で
ついに力尽きた妹。
満州の土となった妹。

引揚げ後、お墓を作ったけれど遺骨はもちろん遺髪も爪さえもなく、
奇跡的に残っていた赤ちゃんの時のよだれかけを入れたそうです。

妹をはじめ、同世代で亡くなった子どもたち。
置いていかれ、捨てられ、手にかけられ、
売られ、飢え、病にたおれた子どもたち。

また、同じことが繰り返されていることに
いてもたってもいられない思いで、
語り部をつとめておられます。


# by kinen330 | 2023-12-07 19:15

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


by kinen330