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満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。
by kinen330

父として

「この子を一度も抱けなかったから」

おじさんが青少年義勇軍で渡満したという女性が来館されました。

3年間の訓練を終えた後、義勇隊開拓団へ移行し、結婚して奥様を迎えます。
娘さんが生まれましたが、その時にはすでに召集されて団を離れていました。
その後のソ連侵攻で、残されていた婦女子たちは逃避行。
途中で幼い娘さんは亡くなりました。

おじさんは2年前に90歳で亡くなりました。
亡くなる前に、その娘さんの位牌を一緒に棺に入れてほしい、
自分の胸の上に置いてほしい、と頼んだそうです。
「この子を一度も抱けなかったから」と。

開拓団に妻子を残して召集された男たち。
その後の悲劇を聞いて、どんなに無念だったことでしょう。
自分を責めたことでしょう。

長い人生を終え、
一度も抱くことができなかった娘さんと一緒に
おじさんは旅立っていきました。
愛おしい我が子のぬくもりを抱きしめながら。
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# by kinen330 | 2016-08-27 18:33

戦争の悲しみ

「戦争の悲しみを知っていれば繰り返さないと思う。」

今日は記念館の子ども平和学習会でした。
真っ黒に日焼けした男の子3人が参加してくれました。
大きなお重のようなお弁当を持たせてもらっていました。

難しい満蒙開拓の歴史に、しっかりと向き合いました。
自分だったら、と一生懸命考えました。

最後に5年生の男の子が言いました。
「戦争の悲しみを知っていれば繰り返さないと思う。」

「戦争の悲しみ」をこれまでどれだけの人々が味わい、抱えてきたでしょう。
それでも繰り返されるのはなぜでしょう。
始まってしまい、止められないのはなぜでしょう。

繰り返さないための叡智が私たちに問われています。
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# by kinen330 | 2016-08-14 18:08

71年目の夏

長野県でこのような仕事をしていますが、私は広島県の出身です。
この地に来て初めて「満蒙開拓」の歴史を知り、広島県からも多くの開拓団、義勇軍が送出されていたことを知りました。

今日はその広島からナント日帰りでMさんが来館されました。
御年80歳。新聞記者だったMさんですが、退職後は趣味でビデオ作品の制作を手掛けています。趣味といっても内容は重厚なものばかり。今、手がけているのが広島県の山間地、A村が送出した開拓団の歴史です。

たまたま友人の親戚がこの開拓団で亡くなっていました。女・子どもなのに死因が「戦死」となっていることに疑問を持ったことから、調べ始めたそうです。
この開拓団は5つの村が送り出した集合開拓団で、A村では295人が渡満しました。
しかし敗戦後、何百人、何千人という現地人に包囲される事態となります。
「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」
一つの集落20人が集団自決に至りました。それは学校の先生が日本刀で一人ひとり刺し殺すというものでした。ほかに死ぬ術がありませんでした。
そのほかの集落でも襲撃や逃避行、収容所生活の中で大勢犠牲になりました。帰還できたのは105人でした。
A村開拓団の記録はほとんど残っていないそうです。語られてこなかった歴史でした。

「風化しつつある歴史を何とか記録に残しておきたい。いつか誰かの役に立てば。」
Mさんの熱意に、当時はまだ子供だった元開拓団の方々数人が取材に応えてくださっているそうです。

何のための犠牲だったのか。
今だからこそ語れること、そこから見えてくるものもあります。
戦後71年目の夏に、この歴史に向き合おうとしている人がいます。
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# by kinen330 | 2016-08-05 19:22

残しておきたかったこと

「今日は中国人の偉大さを証言しに来た」

昭和4年生まれのKさん。息子さんが車椅子を押し、奥様もご一緒でした。
受付でまずこの言葉。何やら意を決した様子です。

新京(現長春)の師範学校に入学。
当時、増加する満州移民に対応するため現地の教師を現地で養成する学校も作られました。
Kさんの村には、この師範学校への入学者の割り当てが3人あったそうです。

結局、敗戦後は昭和21年6月の引揚げまで撫順炭鉱で働きます。
この炭鉱である日、落盤事故がありました。
その時、仲間のマツダ君を助けてくれたのが、中国人の「ラオシーズ」でした。
「ラオシーズ」のラオは「老」。年配の人への敬称です。
血だらけで生き埋めになっていたマツダ君を引きずり出してくれました。
「ラオシーズがいなかったら、命はなかった。」

Kさんは、満州での体験を思い出すのがつらくてずっと記念館に来れなかったのだそうです。
でも、今日、来てくれました。
そして、どうしても言っておきたかったことは、自分の苦労話ではなく
「中国人の偉大さ」だったのです。

帰り際に「よく来てくださいましたね」と声をかけたら
「やれやれだ」と穏やかな顔をされていました。
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# by kinen330 | 2016-07-30 18:49

27万通りの「満州」

ソ連侵攻後の開拓団が辿った運命はさまざまで、
27万人の開拓団のうち8万人が犠牲になっているという数字だけみても
多くの開拓団が大変な目に遭ったと考えられます。
なので、敗戦後も現地の開拓団にとどまり、
農作業を続けていたという話に、耳を疑いました。

岐阜県から分村開拓団で渡満したTさん84歳。
入植地は北安省。ハルビンよりも北に位置します。
開拓史の記述には、8月初めの大雨で道路が寸断、橋は流され
外部との交通が閉ざされていたことが幸いしたとのこと。
その後も現地住民からの襲撃もなく、
一応武装解除ということで最寄りの街まで武器弾薬を送り届け、
夜も集落の門は開けっ放し。
この無抵抗主義がかえって功を奏したようで、
その後引き揚げまでトラブルによる犠牲者は一人もなかったそうです。

しかし、引き揚げ途中で若い人たち52名は八路軍に残留を命ぜられ、炭鉱へ。
この留用生活では過労と栄養失調で17名が命を落としました。
Tさんも両親と別れ別れになり残留。昭和24年に帰国した時には
母親が病で亡くなっていたそうです。

「現地の人たちにもとてもお世話になったのよ」とTさん。
聞けば、現地住民とは良好な関係で、
国交正常化後に訪問した時は大歓迎してくれたとのこと。
「開拓団の時はとっても良かったの」
懐かしそうに語るTさんでした。

開拓団27万人。27万通りの「満州」があります。
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# by kinen330 | 2016-07-16 18:47