えらい人は

「えらい人は生き残ることになっとるんだ。」

叔父さんが戦時中に満州へ行っていた。
お祖父さんは村長という立場だった。
昭和19年、県のえらい人から「戦況が悪く満州も危ない」という情報を聞き、
息子を日本へ呼び戻し、無事に終戦を迎えたと。

「えらい人は生き残ることになっとるんだ。
 開拓団の人たちは何も知らされずに棄てられた。
 ひどい話だ。」

吐き捨てるように言う男性。
生死を分けた情報を、自分の家族は得ることができたという事実は
喜びでも安堵でもなく、むしろ苦しみや怒り、そして
社会への不信を抱かせるものだった。





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# by kinen330 | 2017-06-25 18:39

お姉ちゃんの涙

泣いて、泣いて、泣いて、
声をあげて泣いて、
「義姉さん、苦労したんだね」
ただ泣いて、泣いて、泣いて、
「よく弟連れて2人で帰って来たね」
ずっと泣いて、泣いて、泣いて、
「写真を見たら一気に思い出しちゃったんだね」
立ち上がれないほど泣いて、泣いて、泣いて、

Sさんの涙は70年分の涙たっだのかもしれません。
一家9人で渡った満州で、父親とはぐれ、母親と兄、弟は亡くなり、
姉はさらわれ、妹2人は残留孤児となり、
12歳にして一つ違いの弟と2人で引揚げてきました。
弟と別々に親戚に引き取られ、しばらくして帰ってきた父親と
その後は標高の高い荒地に再入植。

Sさんはずっと泣かなかったのかもしれません。
どれほどのものを心の奥に沈めて生きてきたのでしょう。

両脇をかかえられ、車椅子に乗せられ、
ゆがんだ泣き顔のまま、温かいご家族、ご親族に囲まれて、
それでもまだ泣きながら、記念館を後にされました。

たんぽぽの花はお姉ちゃんの涙も見ていた。
あの涙を私たちは決して忘れない。



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# by kinen330 | 2017-06-18 18:51

疑問を持つ



昨日、長野県北部の中学校で講演をさせていただきました。


事前学習はほとんどしていないという状況で、どうかなぁと思いながら。


さまざまな立場から多面的に考えることの大切さを伝えながら、満蒙開拓の歴史を辿っていきました。


みんな真剣に聞いてくれました。(中には眠そうな子もいましたが…)


講演後、質問タイム。


この時、中学校ではなかなか手があがりませんが、昨日は感想も含めてたくさん発言してくれました。


質問は、


  1. 気候からしても南の方が安定した農業ができると思うのですが、なぜ開拓団は北の方が多かったのですか。

  2. 労働力としては未熟な少年たちがなぜ義勇軍としてたくさん送られたのですか。


いずれも鋭い内容で、とても驚きました。


「満蒙開拓」という政策の本質を突くものだと思います。


この“なぜ”が大切で、結果だけを学び暗記しても意味はありません。


“なぜ”という問いかけに歴史を学ぶ意義があり、それを追求することで考える力、生きる力、社会を創る力につながるのだと思います。



彼らにとっては初めて出会う「満蒙開拓」であり、実は身近な歴史でもありました。


多くの犠牲を出したこの歴史は、長野県にとって、日本にとって誇るべき歴史ではないかもしれない。


でも、負の歴史に向き合う勇気を持ってほしい。


向き合うことに誇りを持ってほしい。


私たちはこの歴史を学んだからこそ、同じ過ちを繰り返さない社会を創ることができるのだから。


彼らの“なぜ”を大人の私たちも共に考え深めていきたいと思います。





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# by kinen330 | 2017-06-09 18:35

社会が強いたもの

「ご遠慮なく、日本の帝国主義政策の失敗だったとおっしゃってもいいのですよ。」

語り部Mさんの話を聴いた年配の男性が、終わってからMさんに声をかけられました。


Mさんは終戦の時10歳。父親に連れられて満州へ行きました。
物がなくなると現地の中国人のせいにして後ろ手に縛りあげてひざまずかせ、
やかんの水を口に突っ込んで折檻する開拓団の大人たちの姿を見ていました。

ソ連侵攻後、Mさんの開拓団は現地中国人からの襲撃と収容所生活で7割以上亡くなりました。


ソ連侵攻がなければ日本人の犠牲はなかった、という見解もありますが、
Mさんは「戦争がなくあのままあそこに居たらと思うと、背筋が寒くなります」と言います。
日本人の統治のやり方であのまま「満州国」が存続できたはずはないと。


「満蒙開拓」とは何だったのか。
今でも本を読み漁るMさん。
いくら当時の農村救済の打開策だったとしても、
甚大な被害を生んだという結果は明らかです。
「満蒙は日本の生命線」と声高に、国民を送り出したのです。
それでもMさんは「やはり、行った開拓団の責任です」と言います。
そう言わせる日本社会なのです。


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# by kinen330 | 2017-06-02 00:00

母の決断

「自分がいなければ、母は満州に行かんで済んだんやないかと思うんです」

昭和20年5月。近隣の都市が空襲を受け、人々は満州に活路を見出していました。
弟がまだ生後4ヶ月だったので、母親の親族は満州行きに反対でした。
出発の駅に見送りに来た母親の姉妹たちが、その場でまだ行くのを止めていたそうです。

5月に渡満した開拓団でしたが、男たちはほどなく召集。
まだ乳飲み子だった弟は逃避行の列車の中で、母親は収容所で亡くなりました。

自分がいなければ、弟だけだったら、
あの時母親は満州に行かないという決断もできた。
死なずに済んだのかもしれない…。
Sさんは当時12歳でした。
子どもとは別れられない。
そうやって、満州行きを決断した母親たちもいました。

誰を恨んだらいいのでしょう。
巡り巡って、自分を責めるしかなかったのかもしれません。

84歳のSさん。4人のお孫さんに恵まれ、今日は義理の息子さんが遠路、車で連れてきてくれました。
今夜は二人で温泉に入りながら、「満州」に繋がる夜空を眺めていることでしょう。


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# by kinen330 | 2017-05-20 00:00