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あの時の収容所で

「その河があってこそ死ぬことができるという喜び」

「死」にしか望みがないという極限の状況。
大兵庫開拓団は逃避行の中で暴徒化した現地住民に追い込まれ、死ぬ術もなく、
近くのホラン河へ集団入水自決を決行し、298人が亡くなりました。
親が子供を投げ入れ、大人がその後を追う。
河は人で溢れたそうです。

「わしは満州へ行くんだ」
大兵庫開拓団で渡満が決まったY少年は学校で言いふらしました。
子どもながらに「お国のためになるんだ」とうれしかったそうです。
満州へ渡ると、早く中国語を覚えようと現地の友達づくりに励みます。
中国人一家と家族ぐるみでお付き合いをしていたそうです。
そんなY少年もこの集団入水自決に巻き込まれました。
お兄さんと背中合わせにゲートルで縛られ、父親に押してもらい河に飛び込みました。
意識を失いますが、岸に流されて気が付きます。
背中の兄は白目をむいていました。
「兄貴はうまいことやったな。わしは死ねなんだ」
残される方が怖かった・・・。

生き残った人々はハルビンの収容所で越冬。
Y少年は家族5人を亡くし独りぼっちになりました。
絶望の収容所生活の中、「生きて帰るんだ」と励ましてくれたのが長野県の旧楢川村開拓団の人たちでした。
歌を教えてくれたり、食器を楽器代わりにたたいて演奏会をしたり。
Y少年はこの人たちのことをずっと忘れずにいました。
「渡辺さん、大草さん、小島さん」名前も覚えていました。
いつか再会してお礼を言いたいと思っていました。

このY少年と楢川村開拓団の人たちが、記念館で71年ぶりの再会を果たしました。
あの時、あの収容所にいた人たち。
3名は亡くなっていましたが、兄妹や親族らが涙で手を握り合いました。
「覚えていてくれてありがとう」
「今の自分があるのは皆さんのおかげです」

Y少年は戦後も苦労の連続でした。
「いらんもんが帰ってきた」と親戚の家をたらい回し。
「腹一杯食べることはいかん、ここでやめないかん」と常に遠慮していました。
でも「誰も恨まず、笑顔を忘れず生きてきた」との言葉通り、とても魅力的なおじいちゃんです。
Yさんの人柄と楢川村開拓団の人たちの温かさが引き寄せた感激の再会でした。
by kinen330 | 2017-05-12 19:22

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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