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母のふるさとへ

「お正月やお盆になると、母が泣くんです。
 ・・・子どもの自分には理解できなかった。」

残留婦人だった母親と1982年、18歳の時に日本へやってきたMさん。
それまで、日本人という意識はまったくなかった。

残留婦人とよばれた人たち。
終戦時13歳以上で中国に残った人たちを、
日本政府は「自分の意思で中国に残り」中国人と結婚したと判断し、
帰国支援の対象からはずした。
多くは戦後の悲惨な避難生活の中で死に直面し、
家族を助けるため中国人の妻になる選択をしたり、
中には売られた人もいた。
彼女たちこそ、自分の日本名も出身地も日本語も覚えており、
日本文化が無意識に身体の中に染みついていた人たちだった。

「一緒に日本へ帰ってくれないか。」
冬、白菜の収穫の時季だった。突然、母親から相談を受ける。
Mさんは7人兄弟の6番目。上の5人はすでに結婚していた。
3か月考えて決めた覚悟だった。
「それが、自分の使命」だと。

18歳で中学1年生に転入。「あいうえお」も分からなかった。
いじめもあった。
初めの頃は辛くて、中国に帰りたいという思いが‟しっかり”あった。

1983年、日本で初めて迎えたお正月。
ささやかな炬燵にミカンとお菓子が並ぶ。
そこで母親が「ふるさと」を歌い出した。
いい顔をしていた。
ついてきて良かった。

自分の存在を「戦争の後遺症」・・・、
戦争が残した傷だと思っていたこともあったという。
でも今は「みんなに生かされている」と思う。
孫も生まれ、「日本のじいじを楽しんでいる。」
そして、平和こそ大切だと強く思っている。


# by kinen330 | 2024-06-02 17:05

かたい おにぎり

引揚げ後の貧しさ、惨めさは、満州での死に物狂いの生活よりもこたえた。
食べる物がなく、はえている草さえも、勝手に採るなと怒鳴られた。
「野の草も摘めなかったよ。」

当時12歳だったKさん。
父親は現地で召集され、母親と2歳下の妹と3人で引揚げてきた。
父親の実家の近くに掘っ立て小屋を建ててもらい生活していたが、
風が強い日は隙間風で地面に敷いていたゴザがふわふわと浮き上がったのを覚えている。
学校には弁当も持っていけず、その時間は教室を出て時間をつぶした。
しばらく経って、ようやく母親がブリキの弁当箱を作ってくれて、
その中にゆるゆるのお粥を入れ、
傾けないように注意しながら持っていった。

中学校の遠足に、母親がパンを焼いて持たせてくれたことがあった。
お米よりも小麦の方が手に入ったのだろうか。
そのパンを友だちが珍しがって、おにぎりと交換してくれた。
かたく握られた、おにぎりだ。
聴いている私だって胸が躍るではないか。
しかし、
Kさんはそのかたいおにぎりを、妹へのお土産として持ち帰ったという。

「貧乏じゃ、死なん」と笑って語るKさん。
どん底を生き抜いてきた。


# by kinen330 | 2024-05-24 19:12

ねじまき鳥の声が聞こえたら

満州国の首都、新京。
新京駅から真っ直ぐ南にのびる中央通を進み、
大きなロータリーを越え、さらに大同大街を進むと、
左手に広さ十数万坪の動植物公園があった。
周辺にはラグビー場やテニスコート、野球場や陸上競技場が広がる。

1945年8月9日、ソ連軍侵攻。
戦車の地響きが新京にも迫っていたある日の午後、
動物園の猛獣たちが処分される、というエピソードが
村上春樹氏の『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる。
虎、豹、狼、熊。象も対象となっていた。
上からの指示を受けた関東軍の兵隊たちがやってきて銃で撃ち殺すのだが、
かなり手こずり、猛獣たちの命が尽きるまでの生々しい描写が続く。
そして、象まで行きつかないまま疲れ果てた兵士たち。
彼らもその後、シベリアで凄惨な死を遂げるようだ。

この動物園の近くに住んでいた人の手記が記念館にある。
終戦前に「猛獣がつぎつぎに殺された」とあるが、
実際にどのような処分であったのかは触れられていない。

小説の中の語り手の父親は、動物園の獣医であり、その「抹殺」に立ち会う。
彼は哀しみも怒りも感じない。
ただ、その無感覚に戸惑う。

約30年前に出版された村上春樹氏のこの小説に満州が描かれていたことを
web上に書き込まれた来館者の感想から思い出し、図書館で借りて読み返してみた。
1部、2部、3部と3巻あり、3巻ともかなりの分厚さだ。

「人々はとくべつな人間にしか聞こえないその鳥の声によって導かれ、避けがたい破滅へと向かった。そこでは、獣医が終始一貫して感じていたように、人間の自由意思などというものは無力だった。彼らは人形がねじを巻かれてテーブルの上に置かれたみたいに選択の余地のない行為に従事し、選択の余地のない方向に進まされた。」
  (『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』(新潮社 1995年)より)

今もどこかでねじまき鳥がねじを巻いているのかもしれない。
ギイイイッと。


# by kinen330 | 2024-05-18 19:24

「戦争の放棄」

「そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。」(『あたらしい憲法のはなし』第6章「戦争の放棄」より)

1947年5月3日に施行された日本国憲法を解説するため、当時の新制中学1年生の社会科の教科書として『あたらしい憲法のはなし』が出版されました。

満州から兄と二人きりで引揚げてきたKさんは、叔母の知り合いの家に住み込みで働かせてもらっていました。
そこには男の子ばかりの5人兄弟がいて、一番上がKさんと同い年。
Kさんは学校に行っていませんでしたが、家にあるこの本を読み、驚いたと言います。

「戦争をしないなんて、そんなこと決められるの?!」
そして、考えました。
「じゃあ、誰が始めたの?」

この本は1950年に副読本となり、1951年には使用されなくなったそうです。

第6章は続きます。
「もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。」


# by kinen330 | 2024-05-03 17:01

慰霊祭にて

昭和21年3月。
終戦後の厳しい冬がもうすぐ終わろうとしていた頃だ。
15歳の姉が、死んだ。

団で亡くなった人たちは、近くに大きな穴を掘ってみんなそこに入れていたが、
まだ若い少女の死を悼み、周りの人たちが特別に違う場所に埋葬してくれた。
しかし、3月とはいえまだ土は凍っていて、深くは掘れなかった。

3日後、妹たちを連れてお参りに行くと、
野犬が食い荒らした後で、
骨や服の切れ端が散らばった無残な姿になっていた。
「こんなことなら、みんなと同じ穴に入れてもらえばよかった・・・」
そして、このことは母親には言うなと言い聞かせた。

当時12歳の少年は、今、90歳。
まだ、あの哀しみを噛みしめたまま。
心に抱いたまま。

# by kinen330 | 2024-04-28 19:34

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


by kinen330