“伝え手”となる高校生

今日は「鎮魂の夕べ」。記念館の慰霊祭でした。

松本市の梓川高校の生徒さんたちが紙芝居を上演してくれるということで
例年以上の大勢の参加がありました。

高校生は地元の元開拓団、お二人の話を聞き取り、
自分たちでオリジナルの紙芝居を作り上げました。
彼らにとっては遠い遠い昔の話。
当時の服装や道具や建物など、絵にするのは難しい作業だったと思います。

脚本では、極限に追い込まれた人たちの立場に寄り添ったことばが使われていました。
そして、

「人々は生きることに苦しみました」

このことばが心にささりました。
終戦後の満州での避難民生活。
生と死が隣り合わせにある状況で、死と同じくらい生きることも苦しかった。
絶望と貧苦の中で生きていかなければならない人々。
そうですね。人々は生きることに苦しんだのですね。

高校生との学びの中で、持っている力、感性の豊かさにどきりとさせられることがあります。
いつの間にか“伝え手”となっている彼らは、頼もしい仲間たちです。





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# by kinen330 | 2018-08-11 20:26

マータイさえも

Mさんの開拓団もソ連侵攻とともに悲惨な状況になる。
まず松花江の警備にあたっていた満州国軍が反乱を起こし攻撃をしてくる。
本部に集結した日本人をソ連軍が取り囲み、進入。
肩にはマンドリン(自動小銃)。
ちょっとでも命令に背くと容赦なく撃たれた。
そして、中国人の襲撃。
団長は連行され、リーダーを失った開拓団は大混乱に陥る。
すべてのものを奪い尽くされた末に辿り着いた収容所では
極寒の冬が待ち受けていた。
マータイ(麻袋)に穴をあけ身にまとう有様だ。

「隣りで死んでいく人を待つんです」

死んだ人からも衣服をはぎとり自分の物にする。
マータイさえも。

収容所で亡くなった父親は、亡くなる3日前に
わずかに残っている力を振り絞ってMさんを中国人に預けに行った。
10歳の少年はひとり生きて、引き揚げて来た。



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# by kinen330 | 2018-07-29 17:47

人の生き方

「戦争の中でも優しさがあったことを初めて知りました」

今日、大阪から中学校が修学旅行で来てくれました。
3年生、約120人。
前半後半に分かれて語り部さんのお話しを聴きました。
戦争体験を当事者から聴くのはみんな初めてです。

前半の語り部Mさん。終戦の時は11歳です。
開拓団は最後まで集団で行動しました。
団の学校に集結して冬を越し、春になってハルピンへ移動。
途中、病気で亡くなる人も大勢いましたが、
越冬している時、現地の人たちからの襲撃はあまりなく、
ハルピンまでの300キロの移動の際も、
行く先々で現地の人たちにお世話になったそうです。
それもこれも「先に立つ人たちが命がけで交渉にあたってくれたのだと思います」
とおっしゃいます。

「戦争の中でも優しさがあったことを初めて知りました」
終了後の感想発表の一つです。
「苦しい中でも人の感情を失わなかった人がいたことを学びました」
まとめの話で先生もこのようにおっしゃっていました。

”戦争”というとすべてが悲惨なこと、真っ暗というイメージなのかもしれません。
でも体験談の中には様々なエピソードがあります。
中には、助けてくれた人がいたり、自分以外の人のために命がけで行動した人もいました。
戦争の歴史から、語り部さんのお話しから、何を学ぶのか。
中学生の気付きに、私も大切なことを気付かされました。








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# by kinen330 | 2018-05-30 19:06

お弁当づくり

大阪から、30年ほど前に中国帰国者の皆さんの支援活動をしていたというKさんが来館されました。

親と一緒に帰国し、日本の学校に通うようになった子どもたちにも、いろいろな苦労がありました。
ある時、学校からお弁当を持参するよう言われて、親に持たされたのは“お弁当箱”。
中国ではお弁当という文化がなかったのです。
切なかったことでしょう。
そこでKさん、親を対象にしたお弁当づくり教室を企画。
ガールスカウトのグループのお母さんたちが協力してくれました。
まずは日の丸弁当から始めたそうです。
中国からきたお母さんたちと日本のお母さんたちが
わいわいお料理をしている姿が目に浮かびます。
このようなところから、交流、理解が広がっていったのだと思います。

また、日本語教室に声楽家の友人を紹介したという話も。
難しい日本語も、歌になるととっつきやすい。
定着促進センターに滞在する4ヶ月の間に1曲は覚えよう!とやっていたそうです。

訪日調査が進み、中国からたくさん日本へ帰ってきていたあの頃。
言葉や生活習慣の違いでさまざまなトラブルがあったことと思います。
一方で、Kさんのように寄り添い支える人たちもたくさんいました。

「このような記念館をつくってくれてありがとうございます。」
今は白い杖を持つ身になったKさん。
懐かしそうな笑顔を残しながら、ご友人の車で帰って行かれました。












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# by kinen330 | 2018-05-20 20:12

遠く中国から

「日本の人たちは、あたたかく見守ってほしい」

中国黒竜江省ハルピンに「中国養父母連絡会」というボランティア団体があります。
日本人孤児を育てた養父母の支援をしている団体で、昨日、代表の胡暁慧さんが来館され、飯田市で講演をされました。

養父母たちは自分の生活も厳しい状況の中で日本の子どもたちを引き取って育てました。
そして、祖国日本の本当の家族のもとへ帰っていく“我が子”を断腸の思いで送り出しました。
日本へ帰った残留孤児・帰国者たちの多くは自分の生活が精一杯で、養父母のことを顧みる余裕がありませんでした。
残された養父母達の喪失感・孤独ははかり知れません。
それでも、遠く中国から“我が子”の幸せを祈っていたのでしょう。

そのような年老いた養父母を精神的に支えたのが「養父母連絡会」でした。
「他人の子ども、日本人の子どもを引き取ることは、強く優しい気持ちがなければできないこと。私は彼らを尊敬している」とおっしゃいます。
胡さんはこのボランティア活動を34年間続けてこられました。
戦後70年以上が経過し、養父母たちも多くは亡くなっています。
でも、まだ心残りがあると言います。

ひとつは、いまだに「中国残留日本人孤児」であることが認定されず、調査にも至っていない“残された人たち”がいること。彼らに日本を見せてあげたい。
そして、日本に帰っても差別を受け苦しんでいる孤児たちがいることです。
「日本の人たちはあたたかく見守ってほしい。社会に溶け込めるよう、関係者の協力をお願いしたい」と。

今でも、遠く中国から日本に帰国した孤児たちのことを案じている人がいることに、胸が熱くなりました。
この思いに少しでも応えたいと思います。







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# by kinen330 | 2018-05-03 14:56