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母の満州

「母のことが嫌いだったんです」

還暦を過ぎたというTさん。
母親が満州へ行っていたらしいが、ほとんど話さなかった。
「逃げてくる時に鎌を持った中国人に追いかけられた」ということだけ聞いたことがある。
・・・満州は遠い昔の知らない話でした。

名簿を探すと、お母さんの名前が載っていました。
勤労奉仕隊として昭和20年の春に渡満。
場所はソ連との国境に近い下伊那報国農場。
一緒に渡満した28人のうち、ほとんどが10代、20代の若い女性たちで、
生還しているのはTさんのお母さんを含めたったの3人。
壮絶な逃避行の末、多くが佐渡開拓団跡事件に巻き込まれて亡くなっているようでした。

初めて知る母親の満州体験。
どんなことがあったのだろうか。どんな地獄を見てきたのだろうか。

帰国して結婚し、兄とTさんが生まれました。
でも、病気がちだった母親は、学校から帰ってきても床に臥せていることが多かったそうです。
「母のような人生は送りたくない」 
ずっとそう思って生きてきた・・・。
こみ上げてくる母親への哀切。受けとめられなかった呵責。
Tさんの心の奥で塊となっていた母親への複雑な愛憎が、ゆるやかに溶けていっているようでした。
大きな瞳からこぼれる涙が、マスクの縁を濡らしていました。





# by kinen330 | 2021-09-18 19:51

行かなかった理由

7月に駒ヶ根市の公民館主催の平和講座に呼んでいただきました。
駒ヶ根市は戦後A町とB村とC村が合併したのですが、それぞれから何人開拓団が送出されたのかを調べると、興味深い数字が出てきました。
A町は251人、B村は117人、そしてC村は4人。
人口規模はC村がいちばん小さいのですが、それにしても4人のみとは?
なぜ大勢の人が満州へ行ったのか、という研究はありますが、なぜ少なかったのか、という研究はあまり聞いたことがありません。
C地区の公民館長さんに「ぜひ調べてみてください」と振ったらさっそく調べてお返事をくださいました。

考えられる理由その1
「明治時代から村有林設立をめぐる特権問題をひきずっていて、村が一つになりにくかった。」
ということは、村がある程度まとまらなければ開拓団は出せない。
ここから、地域の団結や結びつき、リーダーの存在など、開拓団送出の条件が見えてきます。

考えられる理由その2
「先に満州へ渡った村出身の人から現地の様子が村長宛てに手紙で送られてきた。
 そこには、日本での宣伝が上手すぎる、報道や視察報告などがあまりに良く書かれている、と
 批判的に書かれており、それを村長が村報に載せた。」
村長の考えであったのかは分かりませんが、国策に添わないマイナス情報も共有するような自治体の姿勢が見えてきます。
そして、未知のことに関する身近な人からの情報の方が信ぴょう性があり、人々に影響を及ぼすということも見えてきます。

なぜ行かなかったのかという問いを立てることで、逆になぜ大勢行ったのかという答えが導き出されます。
歴史を学ぶことは、これからの地域づくり、社会づくり、一人ひとりの生き方を考えることにつながります。



# by kinen330 | 2021-09-03 18:53

黄色い景色

父親が満州で農業指導員をしていたという女性Kさんが来館されました。
終戦時はまだ2歳半だったので、満州の記憶はほとんどありません。

避難民となり収容所生活を送る中、中国人に預けられました。
Kさんはずっと泣いてばかりで困らせたそうです。
もし、いい子でいたら、中国の人たちはKさんを養女にしていたかもしれません。

1946年、引揚げの時に母親が迎えに来てくれた時の嬉しさと
引揚げの汽車から見た風景が黄色だったことだけは
覚えているのだそうです。

幼い少女の記憶に焼き付いた黄色い景色。
収穫を終えたコーリャン畑だったのかもしれません。

# by kinen330 | 2021-08-26 18:53

戦没者とは

濃河鎮の収容所から最後の力を振り絞ってミチオくんを中国人にあずけ息をひきとったお父さん。
現地住民からの襲撃で自決に至ったタケシくんの同級生一家。
長春の収容所で「りんごが食べたい」と言って亡くなったコレヒトくんの妹。
逃避行の混乱の中で助けてやれずに置いてきてしまったケンジくんと同じ集落の幼い兄弟。
「お前が行くなら俺も行く」と一緒に義勇軍に応募し収容所で冬を越せなかったタカギくん。
育ててもらったおばあさんのことを必死で話しながら息絶えたマツモトくん。
終戦翌年にマラリアで亡くなり穴を掘って埋めてきたコウさんの1歳の息子。
極寒の収容所でカチカチに凍った姿で馬車で運ばれて行ったレエコさんのお母さん。

満州で亡くなったこの人たちの命も
その中に入っているのだろうか。

# by kinen330 | 2021-08-15 19:10

祖父の生き抜いた時代

「祖父の生き抜いた戦時中のことをもっと知りたいと思うようになりました。」

76年目となった広島原爆の日に、広島県の方からメールをいただきました。
お祖父さまSさんは青少年義勇軍で満州へ行っており、戦闘に巻き込まれ、
銃声で片耳の聴力を失い、足を撃たれながらも日本へ、広島へと帰って来られたそうです。
帰国直後の広島市内の惨状なども、涙を流しながら話してくれていたとのこと。

義勇軍での詳細はご存知なかったようで、『広島県満洲開拓史』から名簿をたどり、
所属中隊などが判明しました。

広島県は長野県に次いで義勇軍を多く送り出しました。
長野県同様、海外移民に積極的な思想があり、また教育界も熱心でした。
 
 昭和16年1月26日、県立Y農学校で県拓務課による拓植訓練講習会開催。
 郡下25校の各学校長、教職員が2泊3日にわたり受講。
 義勇軍の意義を強調し、農村青少年の参加に対する協力を要請した。
                  『広島県満洲開拓史』より要約

この年、広島県からは3つの中隊、総勢800人の少年たちが義勇軍に参加。
Sさんもその一人でした。
昭和16年は満州で対ソ開戦を想定した関東軍特種演習(関特演)が大々的におこなわれ、
渡満したばかりの義勇軍たちも、物資の運搬や陣地構築などに動員されたとあります。
この中隊が3年間の訓練を終えて終戦前年に入植した場所は、
ソ満国境で関東軍の巨大要塞があった虎頭。
ソ連侵攻時の状況は想像を絶します。

片耳の聴力を失い、負傷して帰国されたSさん。
戦後もご苦労されたのではないかと思いました。でも、
「泣き言ひとつ言わずとても逞しく心優しい祖父でした。
 病気で亡くなりましたが、祖母と手を取り合いながら長生きしました。
 祖父は僕の憧れです。」

お祖父さまが生き抜いてきたあの時代とは、満州国とは、義勇軍とは何だったのか。
一緒に向き合っていきましょう。


# by kinen330 | 2021-08-08 13:47

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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