日本語と中国語と

中国残留孤児国家賠償訴訟が全国各地で起こる前、残留婦人の立場から国家賠償を求め訴訟を起こした人物がいました。鈴木則子さん。1943年、14歳の時に一家で開拓団として渡満します。ほどなく両親共に病死。ソ連侵攻後の混乱で兄妹たちを亡くし、生死をさまよった末に中国人の養女となりました。

残留孤児肉親調査がはじまった時、国は「終戦時13歳以上だった人は自分の意志で中国に残った」とし支援の対象からはずします。“残留婦人”といわれる人たちです。「自分の意志で残った」とは―――。この判断をした人たちの人権感覚を疑います。

鈴木さんは1978年に国からの支援も何もない中、自力で帰国。1982年に「中国帰国者の会」を立ち上げ帰国者の支援活動に尽力しました。

今日はその「中国帰国者の会」の皆さんが東京から大型バス1台、約40名で来てくださり、中に鈴木さんの娘さんもいらっしゃいました。ほとんど帰国者2世といわれる世代で、日本語が分からない人が大半でした。
ちょうど今日は「語り部」定期講演で、「語り部」は残留孤児だったNさん。急遽、Nさんの話しを会のメンバーで来ていた3世のWさんという若者が通訳しながらの「語り部」となりました。
Nさんは日本語も中国語もできるのですが、いつも通り日本語で話し、Wさんが中国語に訳していきます。
父親が召集され、母親は収容所で亡くなり、かわいい弟も「トマトは赤くなったかなぁ」といって息をひきとります・・・。はじめは賑やかだった会場もいつのまにかシンとなっていました。ここにいる皆さんのお父さん、お母さんが同じような歴史を背負って生きてきたのです。
Nさんの日本語とWさんの中国語。涙があふれてきました。

鈴木則子さんが残した言葉をご紹介します。
「悲劇よりも批判の意識を持つことの大切さを伝えたい。私達のように易々と騙されてはいけない。国に対して批判や疑問を持たずにいるとどうなるか。自分の意志で考えてゆかないとどうなるか。大きな権力に流されてはいけない。」(山本宗補写真集『戦後はまだ・・・』より)
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by kinen330 | 2015-05-23 19:19

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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