懺悔
2015年 07月 19日
「晩年、祖父はいつも懺悔、懺悔と言いお経をあげていたんです」
お祖父さんが開拓団の団長をしていたという女性Sさんが来館されました。
村では大きい地主の家柄。曾お祖父さんは地域のリーダーとして満州への分村を決定し進めた一人でした。
入植した土地は良くお米も野菜も順調で、養蜂をすると余るほどはちみつが採れたといいます。
翌年から個人経営に移行しようとしていた矢先にソ連侵攻。敗戦となりました。
逃避行や収容所生活で多くの仲間が亡くなりました。
引き揚げ港のコロ島に向かう途中、八路軍(中国共産党軍)の兵士から日本がおこなった土地収奪の話しを聴き、はじめて自分たちが侵略者であったことに気付かされたといいます。
引き揚げ後は集団で母村とは離れた別の場所へ再入植。森林原野を切り拓く厳しい開拓生活が待っていました。
「開拓乞食と言われました」
再入植地での生活は厳しく、着る物もほかの人たちとは違っていました。
さげすみの言葉も投げつけられました。
それでも戦後生まれのSさんは、その生活が当たり前とあまり苦にしなかったそうです。
戦後も引き揚げて来た開拓団の互助組織のリーダーとして奔走するお祖父さん。
しかしSさんはお祖父さんから満蒙開拓の話しはほとんど聞かなかったそうです。
今になって思い出す晩年の姿。
耳に残っている「懺悔、懺悔」。
誰に対してだったのか。何に対してだったのか。
Sさんは今、高齢になった元開拓団関係者を訪ね話しを聞いてまわっています。
向き合いにくい歴史にも向き合い、真の平和を追求することが自分に課せられた使命であると。
お祖父さんが開拓団の団長をしていたという女性Sさんが来館されました。
村では大きい地主の家柄。曾お祖父さんは地域のリーダーとして満州への分村を決定し進めた一人でした。
入植した土地は良くお米も野菜も順調で、養蜂をすると余るほどはちみつが採れたといいます。
翌年から個人経営に移行しようとしていた矢先にソ連侵攻。敗戦となりました。
逃避行や収容所生活で多くの仲間が亡くなりました。
引き揚げ港のコロ島に向かう途中、八路軍(中国共産党軍)の兵士から日本がおこなった土地収奪の話しを聴き、はじめて自分たちが侵略者であったことに気付かされたといいます。
引き揚げ後は集団で母村とは離れた別の場所へ再入植。森林原野を切り拓く厳しい開拓生活が待っていました。
「開拓乞食と言われました」
再入植地での生活は厳しく、着る物もほかの人たちとは違っていました。
さげすみの言葉も投げつけられました。
それでも戦後生まれのSさんは、その生活が当たり前とあまり苦にしなかったそうです。
戦後も引き揚げて来た開拓団の互助組織のリーダーとして奔走するお祖父さん。
しかしSさんはお祖父さんから満蒙開拓の話しはほとんど聞かなかったそうです。
今になって思い出す晩年の姿。
耳に残っている「懺悔、懺悔」。
誰に対してだったのか。何に対してだったのか。
Sさんは今、高齢になった元開拓団関係者を訪ね話しを聞いてまわっています。
向き合いにくい歴史にも向き合い、真の平和を追求することが自分に課せられた使命であると。
by kinen330
| 2015-07-19 09:58