71年目の夏

長野県でこのような仕事をしていますが、私は広島県の出身です。
この地に来て初めて「満蒙開拓」の歴史を知り、広島県からも多くの開拓団、義勇軍が送出されていたことを知りました。

今日はその広島からナント日帰りでMさんが来館されました。
御年80歳。新聞記者だったMさんですが、退職後は趣味でビデオ作品の制作を手掛けています。趣味といっても内容は重厚なものばかり。今、手がけているのが広島県の山間地、A村が送出した開拓団の歴史です。

たまたま友人の親戚がこの開拓団で亡くなっていました。女・子どもなのに死因が「戦死」となっていることに疑問を持ったことから、調べ始めたそうです。
この開拓団は5つの村が送り出した集合開拓団で、A村では295人が渡満しました。
しかし敗戦後、何百人、何千人という現地人に包囲される事態となります。
「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」
一つの集落20人が集団自決に至りました。それは学校の先生が日本刀で一人ひとり刺し殺すというものでした。ほかに死ぬ術がありませんでした。
そのほかの集落でも襲撃や逃避行、収容所生活の中で大勢犠牲になりました。帰還できたのは105人でした。
A村開拓団の記録はほとんど残っていないそうです。語られてこなかった歴史でした。

「風化しつつある歴史を何とか記録に残しておきたい。いつか誰かの役に立てば。」
Mさんの熱意に、当時はまだ子供だった元開拓団の方々数人が取材に応えてくださっているそうです。

何のための犠牲だったのか。
今だからこそ語れること、そこから見えてくるものもあります。
戦後71年目の夏に、この歴史に向き合おうとしている人がいます。
[PR]
by kinen330 | 2016-08-05 19:22