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まだ、涙を流す人がいる

「どうやって責任をとるんだろう」

小学3年生だった少女も、その責任の重さに震えた。
祖父が旗振り役で団長として行った開拓団が
現地で集団自決。

「あの人が旗振り役だった」
「あの先生がすすめたんだ」

送り出した側、推進した人々の戦後。
取り返しのつかない事実。
その責任が、家族におよぼした傷の深さ。

70年以上の歳月が流れても
まだ、涙を流す人がいる。
抱えている人がいる。

# by kinen330 | 2019-06-14 19:46

陰で歌われていた歌

「日本語を覚える必要はない
   あと3年で日本はまけるぞ・・・♪」

今日の語り部定期講演は、12歳で敗戦を迎え、残留孤児となり
1974年に帰国したKさんのお話しでした。

現地の人たちは日本人をおそれて、
Kさんのような開拓団の子どもにまで道を譲ったそうです。
しかし、陰ではこのような歌を歌っていたことを
残留日本人として過ごした戦後になって教わりました。

Kさんは開拓団の学校で、イタリア、ドイツの敗戦を知ります。
それでも、日本がまけるはずはないと信じていました。
8月15日を過ぎ、団長さんが日本の敗戦を伝えても
皆、信じなかったそうです。

 今に見ていろ
 そのうち日本はまける
 それまでの辛抱だ

現実を捉えていたのは、現地の人たちの方でした。




# by kinen330 | 2019-06-08 19:06

千代ちゃんの涙

千代ちゃんは悲しくて悲しくて
水曲柳駅までの1時間半を
ずっと泣き通しでした。

昭和20年5月。
集落の中で一番はじめに父親に召集令状が届きます。
目が悪かった父親は徴兵検査で甲種合格になりませんでした。
それも、満州行きの理由だったのだと思います。
「これで俺もやっと男になれる」
父親は喜びました。

出征の日。
家族や集落の人たちと水曲柳駅まで見送っていきました。
大人たちは途中のケイロ川の水で別れの「水盃」をしましたが、
千代ちゃんはずっと泣いていました。
「父親はそんな私を見向きもしなかった」と。

駅で見送って。
そのまま行方知れずです。
ソ連国境近くの孫呉に配属されたことまでは突きとめましたが
その後の消息は分からないままです。

戦後10年経って、戦時死亡宣告を受け入れることにしました。
でも、父親は中国語が得意だったから、
大陸のどこかで生きているのではないかと、
いつまでもあきらめられずにいました。
「この歳になっても、まだ、父親が恋しくております。」

85歳の語り部。
千代ちゃんのしょっぱい涙は今も涸れていません。



# by kinen330 | 2019-06-07 19:17

同じ日本人として

ハルビンの街なかにあった桃山在満国民学校。通称「桃山小学校」。
ロシア風の立派な建物で、今も学校として使われています。
かつて、そこに通っていて、終戦時には低学年だったという同窓会グループが来館されました。
そして、その桃山小学校で避難民生活を送った元青少年義勇軍の語り部Yさんと懇談の時を過ごされました。

終戦後のハルビン。
北満から避難民となった日本人が集結し、学校や官舎、兵舎などが収容所となりましたが、
劣悪な環境で大勢亡くなります。
桃山小学校も、襲撃をうけて窓は壊され玄関の扉もなく、
吹きさらしの冷たいコンクリートの床で冬を迎えた人々が、
栄養失調や流行病で大勢亡くなりました。
Yさんの仲間たちもここで数十名命を落としました。

もともとハルビンの街に住んでいた日本人も命の危険にさらされていましたが、
引揚げるまで住居を確保できていた人たちもいました。
もちろん学校は閉鎖。
親たちは言いました。「学校に行ったら病気を移される。」
避難民の間で流行していた発疹チブス。
親であれば子どもに行かないよう言い聞かせたことでしょう。

終戦翌年の秋になってようやく引揚げ。
彼らは戦後になって、開拓団をはじめ自分たちと比べて
あまりに悲惨だった同朋の存在を知るのです。
「ずっと引っ掛かっていました。」
あまり苦労せず、家族全員無事で帰って来たことへの後ろめたさ。
「同じ日本人として何かできなかったのか」と。

Yさんに問いかけました。
「私たちのような日本人の存在を、Yさんはどう思っていますか。」
Yさんは答えました。
「日本へ帰りたいという思いは、同じだったと思います。」

一人ひとりが抱えている「満州」があります。






# by kinen330 | 2019-05-24 18:30

鴨緑江

「ここで生まれたらしいんです。」

神奈川県から女性1人の来館者、Sさん。
ゆっくり展示を見学し、証言映像の部屋ではうんうんとうなずきながら見入っておられます。
帰り際、「満州に何かご関係があるのですか」とお尋ねしたら
「ここで生まれたらしいんです。赤ちゃんの時に母親におんぶされて鴨緑江(おうりょくこう)を渡ったと聞いています。」

鴨緑江は中国と朝鮮半島の境に横たわり、
白頭山を水源に遼東半島の付け根、丹東まで注ぐ大河です。

ソ連侵攻、日本敗戦となり、満州にいた大勢の日本人が朝鮮半島へ逃げました。
祖国日本へ帰るため。少しでも近付くため。南へ、南へと。
鴨緑江へ来るまでに多くの人が力尽き、子どもを置いていったそうです。

引揚げて来た母親はSさんが中学2年生の時に若くして亡くなりました。
だから、あまり詳しいことは聴けなかったそうです。
ただ、親に反抗すると「鴨緑江で置いてくればよかった」と叱られました。
鴨緑江はSさんにとって特別な場所として刻まれていたのでしょう。
今になって分かります。命がけで自分を連れて来てくれた母親の苦労。
そして、届かない、感謝の思い。

「ぜひ来たかったんです。こういう施設ができてありがたい。」
胸がいっぱいの様子でした。

連休が終わり少し静かになった記念館。
この空間は亡き人と心でつながる場所でもあるのです。




# by kinen330 | 2019-05-09 20:00

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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