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宴会の前の

「この後の宴会に支障がでるよ」

夕方近くに来館された高齢者クラブご一行さま。
昼神温泉で今夜は楽しい宴会が待っています。
その前に時間があるからと、記念館に寄ってくださいました。

ビデオを観てから展示案内。
皆さん、顔つきが真剣になっていきます。

日露戦争の数え唄をうたってくださる女性や、
「近所のおばさんが満州から引き揚げてくる時に
 船から子どもを投げてきたって・・・」など
終わってからいろいろな話をしてくださいました。
この世代の皆さんには、「満州」や「戦争」に
いろいろな思いがあるようです。

「この後の宴会に支障がでるよ」
幹事さん、困ったような笑顔でマイクロバスに乗り込んで行かれました。

今ごろは温泉に入って、宴会が始まる頃でしょうか。



by kinen330 | 2019-11-18 18:14

ヘルガの答え

「隣国の人々やユダヤの人たちに対してこれほどの被害をもたらした民族であることは、自分として耐え難い・・・。」

3時間半に及ぶシンポジウムの最後の質問に答えはじめたヘルガのことばに会場は静まりかえり、一瞬にして空気が変わった。
ヘルガ、84歳。美しい白髪の元検事長。ドイツ帝国の敗戦により、チェコから幼い妹たちとドイツ本国へ引揚げて来た。
逃避行の途中で母親と別れ、時に残酷な場面も見てきた。
父親も戦争で亡くした犠牲者であるヘルガに、“加害”とどう向き合ってきたかを問う。

「私たちもある意味、ナチスという政府を持ってしまった”被害者”であるともいえる。私たちが持っている罪をどう償えるのか、答えはない。」
「私は個人的に解決の道を見いだしてきた。それは、ユダヤの人たちと交流し、文化に興味を持ち、理解をする努力をした。そして、それをイスラムや仏教にも広げていった。」
「加害者と被害者は紙一重である。どんな人とも友情を培っていくことが大切ではないだろうか。」

by kinen330 | 2019-10-20 19:47

収容所の青空教室

1946年7月。
長い収容所生活がようやく終わろうとしていました。
いよいよ引揚げが近付いていました。

同じ収容所にいた子どもたちが集められて、青空教室。
地面に棒きれで自分の名前を書かされました。
日本に帰って学校に行って、名前が書けなかったら困るからと。
書いては消し。書いては消し。
「胸がワクワクしたな。」

その頃にはみんな栄養失調でひょろひょろでした。
痩せこけた身体をシラミがむさぼり、肌は荒れてぼろぼろでした。
遺体のそばに供えられた小さなおにぎりを奪い合う日々。
でも、なんとか生きていてた子どもたち。

文字を書く、名前を書くことは
自分を、人間らしさを、取り戻すことだったのかもしれません。


by kinen330 | 2019-09-14 19:58

ふたつだけ、悲しいこと

母親と二人きりで故郷の村に帰ってきた。
父親は日本に引き揚げてきてから病院で亡くなった。

貧乏なんか当たり前でなんともなかったけど、
ふたつだけ、悲しいことがあった。

中学の時、学校で映画を観に行くことになった。
隣町まで、行きはみんなとバスに乗った。
帰りは一人だけ、歩いて帰った。
映画を観れただけよかったと自分に言い聞かせた。
でも、みんなはバスに乗って帰って行った。
同じように貧乏だったあの子も・・・。
わたしだけ、歩いて帰った。

工事現場の土方の人が「気をつけて帰りなよ」と声をかけてきた。
男の人の背中かと思ったら、配給でもらった軍服を着た母親だった。
早く、楽にしてあげたいと思った。

ふたつだけ、悲しいこと。

by kinen330 | 2019-07-05 19:56

そり遊び

現地の子どもたちとも一緒に遊んだという語り部さん。
冬場はどんな遊びをしていたのか尋ねると、

「そり遊び。4,5人が乗れる大きなそりを作ってもらってな」
坂の上から凍った斜面をそりに乗って一緒に滑って降りてくる。
響き渡る子どもたちの歓声。
スリルとスピードがたまらない。

「でも、坂の上にそりを運ぶ役は、中国の子どもたちだったなあ・・・。」

滑っては登り、滑っては登る。
日が暮れるまで、夢中になって、繰り返し、繰り返し。

こんな満州の冬景色、子どもたちの遊びの中にも
民族の序列が垣間見え。
体験者の語りからこぼれ落ちてくる満州国の実相を
拾い集めておこうと思うのです。

by kinen330 | 2019-06-28 19:29

まだ、涙を流す人がいる

「どうやって責任をとるんだろう」

小学3年生だった少女も、その責任の重さに震えた。
祖父が旗振り役で団長として行った開拓団が
現地で集団自決。

「あの人が旗振り役だった」
「あの先生がすすめたんだ」

送り出した側、推進した人々の戦後。
取り返しのつかない事実。
その責任が、家族におよぼした傷の深さ。

70年以上の歳月が流れても
まだ、涙を流す人がいる。
抱えている人がいる。

by kinen330 | 2019-06-14 19:46

陰で歌われていた歌

「日本語を覚える必要はない
   あと3年で日本はまけるぞ・・・♪」

今日の語り部定期講演は、12歳で敗戦を迎え、残留孤児となり
1974年に帰国したKさんのお話しでした。

現地の人たちは日本人をおそれて、
Kさんのような開拓団の子どもにまで道を譲ったそうです。
しかし、陰ではこのような歌を歌っていたことを
残留日本人として過ごした戦後になって教わりました。

Kさんは開拓団の学校で、イタリア、ドイツの敗戦を知ります。
それでも、日本がまけるはずはないと信じていました。
8月15日を過ぎ、団長さんが日本の敗戦を伝えても
皆、信じなかったそうです。

 今に見ていろ
 そのうち日本はまける
 それまでの辛抱だ

現実を捉えていたのは、現地の人たちの方でした。




by kinen330 | 2019-06-08 19:06

千代ちゃんの涙

千代ちゃんは悲しくて悲しくて
水曲柳駅までの1時間半を
ずっと泣き通しでした。

昭和20年5月。
集落の中で一番はじめに父親に召集令状が届きます。
目が悪かった父親は徴兵検査で甲種合格になりませんでした。
それも、満州行きの理由だったのだと思います。
「これで俺もやっと男になれる」
父親は喜びました。

出征の日。
家族や集落の人たちと水曲柳駅まで見送っていきました。
大人たちは途中のケイロ川の水で別れの「水盃」をしましたが、
千代ちゃんはずっと泣いていました。
「父親はそんな私を見向きもしなかった」と。

駅で見送って。
そのまま行方知れずです。
ソ連国境近くの孫呉に配属されたことまでは突きとめましたが
その後の消息は分からないままです。

戦後10年経って、戦時死亡宣告を受け入れることにしました。
でも、父親は中国語が得意だったから、
大陸のどこかで生きているのではないかと、
いつまでもあきらめられずにいました。
「この歳になっても、まだ、父親が恋しくております。」

85歳の語り部。
千代ちゃんのしょっぱい涙は今も涸れていません。



by kinen330 | 2019-06-07 19:17

同じ日本人として

ハルビンの街なかにあった桃山在満国民学校。通称「桃山小学校」。
ロシア風の立派な建物で、今も学校として使われています。
かつて、そこに通っていて、終戦時には低学年だったという同窓会グループが来館されました。
そして、その桃山小学校で避難民生活を送った元青少年義勇軍の語り部Yさんと懇談の時を過ごされました。

終戦後のハルビン。
北満から避難民となった日本人が集結し、学校や官舎、兵舎などが収容所となりましたが、
劣悪な環境で大勢亡くなります。
桃山小学校でも、襲撃をうけて窓は壊され玄関の扉もなく、
吹きさらしの冷たいコンクリートの床で冬を迎えた人々が、
栄養失調や流行病で大勢亡くなりました。
Yさんの仲間たちもここで数十名命を落としました。

もともとハルビンの街に住んでいた日本人も命の危険にさらされていましたが、
引揚げるまで住居を確保できていた人たちもいました。
もちろん学校は閉鎖。
親たちは言いました。「学校に行ったら病気を移される。」
避難民の間で流行していた発疹チブス。
親であれば子どもに行かないよう言い聞かせたことでしょう。

終戦翌年の秋になってようやく引揚げ。
彼らは戦後になって、開拓団をはじめ自分たちと比べて
あまりに悲惨だった同朋の存在を知るのです。
「ずっと引っ掛かっていました。」
あまり苦労せず、家族全員無事で帰って来たことへの後ろめたさ。
「同じ日本人として何かできなかったのか」と。

Yさんに問いかけました。
「私たちのような日本人の存在を、Yさんはどう思っていますか。」
Yさんは答えました。
「日本へ帰りたいという思いは、同じだったと思います。」

一人ひとりが抱えている「満州」があります。






by kinen330 | 2019-05-24 18:30

鴨緑江

「ここで生まれたらしいんです。」

神奈川県から女性1人の来館者、Sさん。
ゆっくり展示を見学し、証言映像の部屋ではうんうんとうなずきながら見入っておられます。
帰り際、「満州に何かご関係があるのですか」とお尋ねしたら
「ここで生まれたらしいんです。赤ちゃんの時に母親におんぶされて鴨緑江(おうりょくこう)を渡ったと聞いています。」

鴨緑江は中国と朝鮮半島の境に横たわり、
白頭山を水源に遼東半島の付け根、丹東まで注ぐ大河です。

ソ連侵攻、日本敗戦となり、満州にいた大勢の日本人が朝鮮半島へ逃げました。
祖国日本へ帰るため。少しでも近付くため。南へ、南へと。
鴨緑江へ来るまでに多くの人が力尽き、子どもを置いていったそうです。

引揚げて来た母親はSさんが中学2年生の時に若くして亡くなりました。
だから、あまり詳しいことは聴けなかったそうです。
ただ、親に反抗すると「鴨緑江で置いてくればよかった」と叱られました。
鴨緑江はSさんにとって特別な場所として刻まれていたのでしょう。
今になって分かります。命がけで自分を連れて来てくれた母親の苦労。
そして、届かない、感謝の思い。

「ぜひ来たかったんです。こういう施設ができてありがたい。」
胸がいっぱいの様子でした。

連休が終わり少し静かになった記念館。
この空間は亡き人と心でつながる場所でもあるのです。




by kinen330 | 2019-05-09 20:00

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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