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移民カラオケ

「あなたはカメラを置いたら、この現実に参加していますか?」と撮影相手に問われた時、
「はい、参加しています」とまっすぐ答えられる存在でありたい。


内山くんが初めて記念館に来たのは、東京の中国帰国者グループの同行取材だった。
Tシャツにサンダル姿。あまりにも馴染んでいたのでグループの人だと思っていた。
こういう取材をしている人はどんな作品をつくるのだろう。印象に残っていた。
そして、できた番組が
「私はどこに還るのか 中国残留孤児の歳月(2015年NHKにて放映)」だった。

しばらくご無沙汰していたが、昨年、久しぶりにメールが届いた。
新しい挑戦をしているという。「移民カラオケ」・・・!?

残留婦人の母を持つ栄子さんが歩んだ人生が、
「時の流れに身をまかせ」のメロディーにのって
切なくも温かく伝わってくる。
そして、その映像を見ている人々。料理。お酒。笑顔。

メールには冒頭のことばも添えられていた。
・・・シビれました。


ドキュメンタリーとは。ジャーナリズムとは。
資本やコマーシャリズムに染められたテレビ業界で、
自分たちは何ができるのかを模索している若きドキュメンタリストたち。



今回の冬季講座はちょっと違う。
「映像を通して人間と向き合う時間」
皆さま、ぜひご一緒に。


by kinen330 | 2020-02-20 14:07

右の耳

ー 屋根を葺くヤン草は50㎝くらいの厚みがありましたよ。 
  3年に一度くらい、順番に屋根の葺き替えをしてね。
  その時は集落みんな集まって手伝った。
  お祭りみたいで、女の衆が料理をふるまって。ー

開拓団の家屋の模型のところで突然大きな声で話し始めたNさん、88歳、男性。
左耳は敗戦後の収容所生活で病気に罹ってからずっと聞こえません。
右耳には補聴器をつけています。

昭和20年8月10日に父親が召集されていき、
昭和21年1月15日に母親が収容所生活で亡くなりました。
残された幼い妹二人と連れて行かれた養父母の家では、
お湯で体を洗ってくれて、貴重なお米を炊いてくれたそうです。
その後の養母の看病のお陰で、Nさんの右耳の聴力は回復しました。

養父のいとこの金さんという人が、毎日のように中国語を教えてくれました。
そのうち読み書きができるようになり、
養父母の豆腐やの事務仕事も任されるようになりました。

冬になると金さんのところに近所の人たちが集まって、歴史小説を読んでもらっていました。
字の読めない人が多かった当時のささやかな冬の娯楽です。
いつも20人くらいが聴きにきていました。
そのうちNさんも読むようになります。
分からない字は適当に読んでいましたが、
後になって間違えていたことが分かるようになったそうです・・・!

昭和28年。悩んだ末に、金さんを介して養父母に帰国の思いを伝えました。
「この日がくるかもしれないと思っていた。」
養父母はNさんに新しい服などを買って準備を整え、送り出してくれました。

展示室を移動しながら、最後まで大きな声で、
なつかしそうに話してくださいました。
お話しを聴いていて、心が温かくなるのを感じました。







by kinen330 | 2020-02-14 18:33

私の地域の歴史

制服姿の高校生女子とお母さんの二人連れが来館。
学校の用事で近くまで来た帰りに、前から気になっていた記念館へ。

私のガイドに耳を傾け、時々質問しながら、
お母さんは何かを確認するように見学していました。

収容所生活のコーナーまでいって、ひと息。
「重いですね~」

長野県内で分村を送出した村のご出身のお母さん。
授業や教科書で学んだ記憶はないけれど、
中学の時、開拓団の本をもとにした演劇をしたのだそうです。
「逃げて隠れているところへソ連兵が入って来て、
 泣くと見つかるから子どもを殺すっていう・・・。
 どうしてこんな悲惨な話しをやらなくちゃいけないんだろうと思っていました。」
「でも、この歳になって・・・。」
自分の地域の歴史を知っておかなければと思うようになったそうです。
「なんていうか、申し訳ないっていうか・・・、
 時代に翻弄されて苦労した人たちのことをね、忘れないように・・・」

そんなお母さんの言葉を背中で聞きながら
娘さんは体験者の証言を読んでいました。



by kinen330 | 2020-01-26 19:17

5人のおじいちゃまへ

今日の仕事は5人のおじいちゃまへお手紙を書くことでした。

埼玉県の元開拓団のWさん、83歳。
当時のことを思い出すと涙が溢れて筆が進まなかった、と必死で書いた自伝を以前送ってくださり、先週お仲間4人と来てくださいました。
Wさんの自伝『父よ妹よ』より。
ー 「お兄ちゃん寒い」といったので二人で一緒に使っていた毛布を妹の身体に巻き付けてしっかりとかけてやったが、ぼくはその後すっかり眠ってしまったので、寝返りなどして毛布は妹から離れて妹に寒い思いをさせてしまったかも知れない。ー
妹さんは「リンゴが食べたい」と言って、数日後に亡くなりました。

神奈川県のSさん、80歳。
長野県出身の元開拓団。先週、故郷の村の人たちが来館されるということで、その前日にお電話をくださいました。
Sさんの体験記より。
逃避行の5日目、追い込まれた人々は「生き組」「死に組」に分けられ、子どもや若い女性、病人などはここで自決させるしかないという判断に至りました。お姉さんは死のまぎわに言いました。「あたいは鈴蘭の花が好きだから鈴蘭の花を見たらお線香をあげて。」 建物に手榴弾を投げ入れ、火を放つという壮絶な自決現場。「死に組」だったSさんは反射的に外へ出て逃げたといいます。逃げるSさんの足を誰かの手が「まるで地獄から助けをよぶ手のよう」に引き止めたそうです。

東京在住のOさん、84歳。
ソ連侵攻後の満州で、民間人が遭遇した惨劇の中でも最も犠牲者が多かったといわれている「葛根廟事件」の生存者のお一人です。
現在の内モンゴル自治区、旧興安総省のチベット寺院葛根廟付近で、避難民がソ連の戦車部隊の襲撃に遭い1,000人以上が亡くなりました。逃げ惑う人々を戦車がひき殺し、大草原が血で染まったともいわれる凄惨な事件です。
その生存者の証言から真相を辿るドキュメンタリー映画『葛根廟事件の証言』が12月21日から東京の池袋シネマ・ロサで上映されるというお知らせをいただきました。

東京在住のNさん、92歳。
当地、長野県下伊那郡のご出身です。学校で青少年義勇軍の候補生6人のうちの一人として事前訓練などに参加していましたが、結局友だちにすすめて二人が渡満。大変な苦難の末に無事帰ってきたそうですが、それをずっと気にされていたそうです。
行った人にも、行かなかった人にも、「満州」という歴史は刻まれています。

東京在住のMさん、89歳。
高校の教員をしながら長年満蒙開拓について地道に研究、調査をされてきた人です。
満蒙開拓の加害性にも早くから言及され、著作物のテーマには大陸の花嫁、朝鮮半島からの開拓団・義勇軍、義勇軍を送出した学校教育の責任など、歴史の陰の部分に光を当ててこられました。どこに立脚して歴史を見るのか、大切なことを教わっています。


それぞれの方にお手紙をしたためました。
私の大切な仕事です。



by kinen330 | 2019-12-08 20:05

記憶の対話

「早く引揚げてきた人たちには残留した人の苦労は分からないと思っていました。」

祖母が残留婦人だったというTさんが来館されました。
敗戦後の避難民生活で命をつなぐため、家族を守るために
現地の人たちの妻になる選択をした女性たち。
祖国への思いを胸に秘めながら
現実を受け入れ乗り越えてきた女性たちです。

終戦の翌年から始まった満州からの引揚げ。
多くの人が1946年に帰ってきました。
「引揚げ者」といわれています。
残留孤児、残留婦人となった人たちは
国交正常化の1972年以降に帰ってきました。
「中国帰国者」といわれています。

引揚げ者の人たちは、
それでも「日本人」として受け入れられ、
日本社会で再出発ができたのではないか。
戦後の復興、高度経済成長の恩恵を受けることができたのではないか。
何より、子どもたちに教育を受けさせることも。

Tさんは語り部講話を聴きました。
この日の語り部さんは1946年10月に引揚げてきた人でした。
ようやくたどり着いた故郷で
「満州から帰った人たちに売る物はない」と買い物を拒否されたり
「満州がえりは勉強しなくていい、働け」と身内からも言われたり・・・。
自分が満州からの引揚げ者だと他人に言えるようになったのは
ほんの数年前からだと話されました。

早く引揚げてきた人たちが受けた心の傷を知りました。

こうして、お互いの体験を聴き合い理解し合うことが
「記憶の対話」というのだと思います。
それは和解への一歩になり、お互いの心を豊かにするのだと思います。



by kinen330 | 2019-11-24 18:50

宴会の前の

「この後の宴会に支障がでるよ」

夕方近くに来館された高齢者クラブご一行さま。
昼神温泉で今夜は楽しい宴会が待っています。
その前に時間があるからと、記念館に寄ってくださいました。

ビデオを観てから展示案内。
皆さん、顔つきが真剣になっていきます。

日露戦争の数え唄をうたってくださる女性や、
「近所のおばさんが満州から引き揚げてくる時に
 船から子どもを投げてきたって・・・」など
終わってからいろいろな話をしてくださいました。
この世代の皆さんには、「満州」や「戦争」に
いろいろな思いがあるようです。

「この後の宴会に支障がでるよ」
幹事さん、困ったような笑顔でマイクロバスに乗り込んで行かれました。

今ごろは温泉に入って、宴会が始まる頃でしょうか。



by kinen330 | 2019-11-18 18:14

ヘルガの答え

「隣国の人々やユダヤの人たちに対してこれほどの被害をもたらした民族であることは、自分として耐え難い・・・。」

3時間半に及ぶシンポジウムの最後の質問に答えはじめたヘルガのことばに会場は静まりかえり、一瞬にして空気が変わった。
ヘルガ、84歳。美しい白髪の元検事長。ドイツ帝国の敗戦により、チェコから幼い妹たちとドイツ本国へ引揚げて来た。
逃避行の途中で母親と別れ、時に残酷な場面も見てきた。
父親も戦争で亡くした犠牲者であるヘルガに、“加害”とどう向き合ってきたかを問う。

「私たちもある意味、ナチスという政府を持ってしまった”被害者”であるともいえる。私たちが持っている罪をどう償えるのか、答えはない。」
「私は個人的に解決の道を見いだしてきた。それは、ユダヤの人たちと交流し、文化に興味を持ち、理解をする努力をした。そして、それをイスラムや仏教にも広げていった。」
「加害者と被害者は紙一重である。どんな人とも友情を培っていくことが大切ではないだろうか。」

by kinen330 | 2019-10-20 19:47

収容所の青空教室

1946年7月。
長い収容所生活がようやく終わろうとしていました。
いよいよ引揚げが近付いていました。

同じ収容所にいた子どもたちが集められて、青空教室。
地面に棒きれで自分の名前を書かされました。
日本に帰って学校に行って、名前が書けなかったら困るからと。
書いては消し。書いては消し。
「胸がワクワクしたな。」

その頃にはみんな栄養失調でひょろひょろでした。
痩せこけた身体をシラミがむさぼり、肌は荒れてぼろぼろでした。
遺体のそばに供えられた小さなおにぎりを奪い合う日々。
でも、なんとか生きていてた子どもたち。

文字を書く、名前を書くことは
自分を、人間らしさを、取り戻すことだったのかもしれません。


by kinen330 | 2019-09-14 19:58

ふたつだけ、悲しいこと

母親と二人きりで故郷の村に帰ってきた。
父親は日本に引き揚げてきてから病院で亡くなった。

貧乏なんか当たり前でなんともなかったけど、
ふたつだけ、悲しいことがあった。

中学の時、学校で映画を観に行くことになった。
隣町まで、行きはみんなとバスに乗った。
帰りは一人だけ、歩いて帰った。
映画を観れただけよかったと自分に言い聞かせた。
でも、みんなはバスに乗って帰って行った。
同じように貧乏だったあの子も・・・。
わたしだけ、歩いて帰った。

工事現場の土方の人が「気をつけて帰りなよ」と声をかけてきた。
男の人の背中かと思ったら、配給でもらった軍服を着た母親だった。
早く、楽にしてあげたいと思った。

ふたつだけ、悲しいこと。

by kinen330 | 2019-07-05 19:56

そり遊び

現地の子どもたちとも一緒に遊んだという語り部さん。
冬場はどんな遊びをしていたのか尋ねると、

「そり遊び。4,5人が乗れる大きなそりを作ってもらってな」
坂の上から凍った斜面をそりに乗って一緒に滑って降りてくる。
響き渡る子どもたちの歓声。
スリルとスピードがたまらない。

「でも、坂の上にそりを運ぶ役は、中国の子どもたちだったなあ・・・。」

滑っては登り、滑っては登る。
日が暮れるまで、夢中になって、繰り返し、繰り返し。

こんな満州の冬景色、子どもたちの遊びの中にも
民族の序列が垣間見え。
体験者の語りからこぼれ落ちてくる満州国の実相を
拾い集めておこうと思うのです。

by kinen330 | 2019-06-28 19:29

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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