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残された家

「満州に行った人の家に住んでいたんですよ。だからこの歴史は気になっていました。」

団体さんに展示の案内をしている途中、一人の男性がため息混じりにおっしゃいました。
思わず口に出た、という様子でした。
住んでいた家が火事になり、移り住んだ家が開拓団として満州へ行った人の家だったそうです。

開拓団は移民でした。
満州で生きていく決断をした人たちです。
家や土地は処分していきました。
家は人手に渡ったり、壊されて畑になったり。
そのため、引揚げてきた時には帰る家はありませんでしたし、
生きて帰ってこられた人ばかりではありませんでした。

展示に見る逃避行、集団自決、収容所生活、引揚げ、残留・・・。

「その人たちはどうなったのか・・・」
見ず知らずの一家に思いを馳せておられました。
いろいろな「満州」があるのだなと思いました。



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by kinen330 | 2018-11-10 12:10

桜の記章

昭和17年に青少年義勇軍で満州へ渡ったTさんが、
卒業前に写したクラス写真を持参してくれました。
学生服を着た少年たち、総勢46人が5段に並んでいます。
中にTさんを含む3人が左胸に白いバッジをつけています。
桜の記章。満蒙開拓青少年義勇軍の記章です。

義勇軍に行く3人は卒業の少し前からこの記章を学校につけてくるよう言われました。
下級生たちからは「いいぜ、あの人。満州に行くんだぜ」と言われ
同級生たちからもうらやましがられました。
「おだてられて、ちやほやされて、てんぐになった。優越感を感じたね。」

Tさんのひとつ上の学年からは誰も義勇軍に行きませんでした。
担任の先生は満州へ視察に行くなどして気合いを入れていました。

しかし、3人のうち1人は昭和19年、腹膜炎を煩い満州の病院で亡くなり、
もう1人は逃避行の途中で行方不明になったままです。
Tさんもソ連侵攻時は国境守備隊に配属されており、
なんとか助かったものの、敗戦後はシベリアに抑留されました。

白黒のクラス写真。桜の記章を胸につけた3人の少年は、少し誇らし気に見えます。
「宣伝効果に一役買ったんだね」
自嘲気味に笑うTさん。
当時の国や社会、教育が14歳の少年に植え付けたものとは。



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by kinen330 | 2018-10-19 19:27

中学生の「なぜ」

・満州の様子は日本に伝わっていたのですか。
・満州にもともといた現地の人と仲良くする方法はなかったのですか。
・ソ連や中国の人に追われるようになることを当時は予測できなかったのですか。
・どうして普通の開拓団だけでなく青少年義勇軍をつくったのですか。
・送りだした人はどんな気持ちだったのですか。
・なんで開拓団の人は日本が負けるということを考えなかったのですか。
・なぜ満州から帰ってきた人を心から受け入れてあげられなかったのですか。
・今でも取り残されたまま帰れなくなっている人はいるのですか。
・満蒙開拓は日本に利益をもたらしていたのですか。また、結果的に満蒙開拓は日本にとってよいものだったのですか。
・満州に渡った人たちがこんな目にあわないようにするには、どうしたら良かったのでしょうか。
・中国の人たちは今でも日本人を嫌っていますか。
・なぜ戦争体験者の方々が、今になって満蒙開拓のことなどを語りはじめたのか知りたい。
・日本はなぜ戦争をしたのですか。
・三沢さんが当時の村長だったらどのような判断をされますか。
・「これだけはわかってほしい」ということはありますか。
・三沢さんが思う平和とは何ですか。

たくさんの「なぜ」を持って中学生が来館してくれています。
答えも正解も簡単には出せません。
一緒に考えています。
考えることが大切なのだと思います。




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by kinen330 | 2018-10-07 14:44

孤児収容所

昭和15年に満州の国境近くの開拓団で生まれたというHさん。
逃避行と収容所生活で家族を亡くしました。
5歳の少女が独りぼっちに。

奉天孤児収容所。
記念館の展示に子どもたちの写真があります。
皮と骨に痩せこけた姿。
力なく横たわっている少年たち。
あそこにHさんはいたのです。
どれだけ心細い思いをされたでしょう。
「子どもでしたから・・・」
複雑な感情を抱くには幼すぎたのかもしれません。

栄養失調や病気で亡くなっていく子どもたちもいました。
遺体は「奥の暗い部屋」に運ばれました。
何日も置かれていたこともあったそうです。
「うじが湧くんです」

孤児たちは集団での引き揚げ措置がはかられ
Hさんは博多から日本赤十字の人に連れられて故郷に帰ってきました。
帰国後のことは、話したくない様子でした。
「当時のことを思い出すと今でもこの(胸)あたりが苦しくなるんです」



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by kinen330 | 2018-09-28 19:29

報国農場

食糧増産のため4月から10月までの約7ヶ月間、満州へ派遣された「報国農場隊」。
農業“移民”とは別組織で、主に農業学校や青年学校在学中の若い男女で構成されていました。
昭和20年には満州全土に58ヵ所作られ、4,500人あまりが渡満。
そして、ソ連侵攻に巻き込まれました。

その内の一人、Tさんが弟さんたちと来館されました。
「父親が徴兵検査を何度受けても不合格で」
7人きょうだいの長男Tさんは「父親の分まで」と志願しました。
15歳になったばかりでした。

朝5時に起こされて軍事訓練、朝食を食べたら農作業。
軍人勅諭も暗記させられ、厳しい生活でした。
食糧不足で「大豆や小豆に数えるほどのお米が入ったもの」が食事でした。
腹が減って腹が減って、消灯後に「おい、行くか」と仲間と一緒にショートル(泥棒)。
近くの「満人」の畑へ盗みに行きました。

ソ連侵攻は突然のことでした。
逃避行では密林をさまよい、弱った仲間は置いていきました。
なんとかハルビンから新京まで南下した一団も収容所生活で亡くなっていきます。
全滅寸前、新京で商売をしていた日本人O氏が助けてくれました。
病人を病院へ。食糧や薬も工面してくれて、数人は自宅へ引き取ってくれました。

結局、90人の仲間のうち56人が満州の地で亡くなりました。

生きて帰って来たTさん。昭和23人に末弟が生まれ、命の恩人であるO氏の名前をつけました。
記念館にはその弟さんがTさんを連れてきてくれました。
歳の離れた兄の満州体験と自分の名前の由来を、隣で穏やかに聴いておられました。






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by kinen330 | 2018-09-16 13:40

94歳と小学4年生

この夏、岐阜県の小学4年生Kくんから何度か質問メールがきました。
自由研究で満州について調べているというのです。
「なぜ岐阜県や長野県は満州へ移り住んだ人が多かったのですか。」

あのさぁKくん、それって結構難しい質問なんだよね、と思いながら
いくつか理由を書いて返信しました。
そして、私からも質問。
「Kくんのまわりにも満州へ行った人がいますか。」

数日後にメール。
94歳のひいおばあちゃんが開拓団に行っていて、インタビューをしてまとめているとのこと。
そうだったのか。そして次の質問は、
「引き揚げた時、300円支給されたそうです。300円で何が買えたのですか。」

さて。体験談の本をいくつか調べてみました。
・Aさんの話し(1946年10月ころ)
「名古屋の駅へ来たときに、サツマイモ 一皿30円、くじらの肉が30円っていうやつをみんなにふるまってねえ。」
・Bさんのメモ(1946年7月ころ)
「満州とだいたい物価は同値なり、もも4つ16.5円で買う」
・Cさんの話し(1948年ころ)
「サンマ 1本50円」

数日後、お礼のメールがきました。そこには、
「引きあげまでの避難の話を聞いて、ひいおばあちゃんが帰国できたのは、奇跡だなあと思いました」とありました。
94歳のひいおばあちゃんからKくんに命がつながっていることに、
じんわりと感動が込みあげてきました。

Kくんのひいおばあちゃんの開拓団は、ソ連と北朝鮮に接した国境沿いにありました。
8月9日のソ連侵攻ですぐ避難命令が出ます。
逃避行の途中では、先に行った日本軍に橋が壊されていたところもありました。
引き揚げまでに大勢亡くなりました。

そして今日、またメールがきました。
なんと、自由研究が市の社会科作品展に選ばれて、公民館に展示され、
たくさんの人に見てもらえたというのです。
「こういう時代があったことを知ってもらえて、また、何か感じてもらえたら嬉しいなぁと思いました」とありました。
ひいおばあちゃんも喜んでくれたことでしょう。









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by kinen330 | 2018-09-09 20:23

り しゅんりん

12歳で終戦。両親を収容所で失う。
拾ってくれた家庭では、豚の世話と子どもの世話が仕事だった。
はじめのうちは中国語が分からず、叩かれながら仕事を覚えた。
頭が傷だらけになっていた。
それでも命の恩人だった。
あまりの酷い仕打ちに、隣の家のおばさんがいつも助けてくれた。
日本人だって人間だ、と。
そのおばさんの夫は日本の関東軍に殺されていたことは後で知った。

「リーベンクイズ(日本鬼子)」と呼ばれていた。
何の意味か分からず返事をしていた。

ある日、庭で「満州国」当時の貨幣を見つける。
ああ、なつかしい。
子どもに見つかり取られてしまうが、誤って飲み込んで喉に詰まらせるハプニング。
「お前のせいだ」と殴られる。
近所の人たちも「ここにいたら殺されてしまう。逃げろ」という。

チャンスをうかがい、駆け出す。
必死で走る。鎌を持って追いかけてくる。氷が浮かぶ川を泳いで渡る。
氷が頭にあたる。防寒着が水を吸う。重くても痛くても泳ぐ。
向こう岸の草をつかんで這い上がる。

姉がもらわれていた李さんの家に逃げ込む。
以前から「うちに来い」と言われていた。「うちの息子になれ」と。

「り しゅんりん(李 春林)」

「いい名前をつけてもらいました」
中国養父母につけてもらった名前。
誇らしい名前だ。





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by kinen330 | 2018-08-25 19:25

“伝え手”となる高校生

今日は「鎮魂の夕べ」。記念館の慰霊祭でした。

松本市の梓川高校の生徒さんたちが紙芝居を上演してくれるということで
例年以上の大勢の参加がありました。

高校生は地元の元開拓団、お二人の話を聞き取り、
自分たちでオリジナルの紙芝居を作り上げました。
彼らにとっては遠い遠い昔の話。
当時の服装や道具や建物など、絵にするのは難しい作業だったと思います。

脚本では、極限に追い込まれた人たちの立場に寄り添ったことばが使われていました。
そして、

「人々は生きることに苦しみました」

このことばが心にささりました。
終戦後の満州での避難民生活。
生と死が隣り合わせにある状況で、死と同じくらい生きることも苦しかった。
絶望と貧苦の中で生きていかなければならない人々。
そうですね。人々は生きることに苦しんだのですね。

高校生との学びの中で、持っている力、感性の豊かさにどきりとさせられることがあります。
いつの間にか“伝え手”となっている彼らは、頼もしい仲間たちです。





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by kinen330 | 2018-08-11 20:26

マータイさえも

Mさんの開拓団もソ連侵攻とともに悲惨な状況になる。
まず松花江の警備にあたっていた満州国軍が反乱を起こし攻撃をしてくる。
本部に集結した日本人をソ連軍が取り囲み、進入。
肩にはマンドリン(自動小銃)。
ちょっとでも命令に背くと容赦なく撃たれた。
そして、中国人の襲撃。
団長は連行され、リーダーを失った開拓団は大混乱に陥る。
すべてのものを奪い尽くされた末に辿り着いた収容所では
極寒の冬が待ち受けていた。
マータイ(麻袋)に穴をあけ身にまとう有様だ。

「隣りで死んでいく人を待つんです」

死んだ人からも衣服をはぎとり自分の物にする。
マータイさえも。

収容所で亡くなった父親は、亡くなる3日前に
わずかに残っている力を振り絞ってMさんを中国人に預けに行った。
10歳の少年はひとり生きて、引き揚げて来た。



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by kinen330 | 2018-07-29 17:47

人の生き方

「戦争の中でも優しさがあったことを初めて知りました」

今日、大阪から中学校が修学旅行で来てくれました。
3年生、約120人。
前半後半に分かれて語り部さんのお話しを聴きました。
戦争体験を当事者から聴くのはみんな初めてです。

前半の語り部Mさん。終戦の時は11歳です。
開拓団は最後まで集団で行動しました。
団の学校に集結して冬を越し、春になってハルピンへ移動。
途中、病気で亡くなる人も大勢いましたが、
越冬している時、現地の人たちからの襲撃はあまりなく、
ハルピンまでの300キロの移動の際も、
行く先々で現地の人たちにお世話になったそうです。
それもこれも「先に立つ人たちが命がけで交渉にあたってくれたのだと思います」
とおっしゃいます。

「戦争の中でも優しさがあったことを初めて知りました」
終了後の感想発表の一つです。
「苦しい中でも人の感情を失わなかった人がいたことを学びました」
まとめの話で先生もこのようにおっしゃっていました。

”戦争”というとすべてが悲惨なこと、真っ暗というイメージなのかもしれません。
でも体験談の中には様々なエピソードがあります。
中には、助けてくれた人がいたり、自分以外の人のために命がけで行動した人もいました。
戦争の歴史から、語り部さんのお話しから、何を学ぶのか。
中学生の気付きに、私も大切なことを気付かされました。








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by kinen330 | 2018-05-30 19:06

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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