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望郷

「この松花江を泳いでいったら日本海へ出て、日本へ帰れるんじゃないかと思いましたね」

今日、記念館で「語り部」をしてくださったMさんは、昭和10年生まれ。
「語り部」では若手!の男性です。

所属していたのは、戦後7割以上帰還できなかった開拓団でした。
収容所生活の中で独りぼっちになり、中国人に預けられました。
その家の子ども達は一緒に遊んでくれて、中国語もたくさん覚えました。
でも、近所の豆腐屋へ大豆を挽くロバの見張り役として働きに出ると、
どなられたり、蹴飛ばされたりしたこともあったそうです。

“日本に帰りたい”
たった10歳の少年が抱く望郷の念・・・。その強烈な思い・・・。
帰る術も分からず、ただ流れる大河を見つめていたのでしょう。

以前、やはり満州で悲惨な収容所生活を送ったという女性が、
「海がなければどんなことをしても歩いて日本に帰った」と言っていました。

日本政府は1945年8月14日、
「居留民は出来得る限り定着の方針を執る」との訓令を
在外現地機関に送っていたのでした。
by kinen330 | 2014-07-21 18:42

慈昭先生

「おとぎ話なんかしてくれてとっても楽しかったの」

いよいよ、映画「望郷の鐘」が来週クランクインとなります。
記念館のHPでも紹介してまいりましたが、
阿智村長岳寺の元住職で中国残留孤児の帰国に生涯を捧げた
山本慈昭さんを主人公にした映画の製作が進められています。

そんな中、慈昭さんが小学校4年生の時の担任だったという女性が
1枚の写真を持って来館されました。
慈昭さんは当時、国民学校の教員をしていたのです。
写真は昭和17年の夏。
丸刈りとおかっぱの子どもたちと一緒に、にこやかに笑っている若き日の慈昭先生がいました。

「授業はおとぎ話をしてくれたり、外に連れ出してくれたりしてとっても楽しかったの。
落第クラスだったんだけどね。やんかな子もいてね~。」

その方の話に、こちらまで楽しくなってくるようでした。
戦時中の学校においても、子どもたちが毎日楽しくいきいきと過ごせるよう心を配った
素敵な先生だったんだろうなと。
阿智郷開拓団でも、日本から送った荷物が届かない中、慈昭先生が
持ってきた紙芝居を見せてくれたり、野鳥の卵をとったりした、との証言があります。

戦後も何度か同級会に出席してくれたとのこと。
歳をとっても「俺はまだ死ねん。やらなきゃいけないことがたくさんある」とおっしゃっていたそうです。

慈昭先生の映画を、歳をとった教え子たちも応援しています。
by kinen330 | 2014-07-19 18:41

当時の空気

「大和民族は世界で一番優秀な民族である。日本人がアジアを引っ張って行くんだ。」
そう教えられて「満州」へ旅立った少年たち。今日の「語り部」のOさんもその一人でした。
でも、「満州国」は“五族協和”をスローガンに掲げていたはず。
すでに矛盾が生じています。


「もし戦争で勝っていても、日本人はあの地でリーダーになれたのか疑問だ。」
岐阜県から来館された大正9年生まれのYさん。
日本全国から集められた青年団の幹部の一人として満州視察旅行に参加し、
その後開拓団員として渡満します。
しかし、「満州」で感じた日本人のおごり、差別意識。
現地の人たちは日本人の勝手なふるまいに抗議もできず泣き寝入りしていたそうです。


体験者の皆さんの話は、当時の空気を伝えてくれる貴重な証言だとつくづく思います。
by kinen330 | 2014-07-12 19:05

にがい思い出

「さんざん義勇軍に誘われた」

84歳のおじいちゃま、おばあちゃまグループが夕方に来館されました。

「それでどうして義勇軍に行かなかったのですか?」と尋ねたら
「父親が義勇軍は絶対だめだと反対した。先生に言ったら往復ビンタされた」とのこと。

往復ビンタ!

長野県の資料で、義勇軍送出数の学校ごとの割り当て表が残されており、記念館でも展示しています。
先生たちを駆り立てたものとは何だったのか。

「それが先生たちの成績になったんだよ―」
それだけではない、時代を覆う闇・・・。

「満州へ行って死んだ人はかわいそうだった。生きている者は幸せ。
 こんないい世の中になって。年金もらってね。」

しみじみと言いながら帰っていかれました。
by kinen330 | 2014-07-03 19:50

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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