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自分は何者か

覚えていたのはナマエと長野県のオカがつく村らしいということ・・・。

昨日、この記念館で、自分がどこの何者なのかが初めて分かった、という人がいたのです。
この事実をどう受けとめればよいのか。今でも気持ちの整理がつきません。

その人は、満州で終戦を迎え、3年ほど中国人の家にいたあと、
鉄道関係の仕事をしていた日本人に引き取られ養子になり、昭和28年に帰国。
最近、お父様の13回忌を済ませたとおっしゃっていました。
お父様は生前から、本当の家族捜しをしてもいいと言われていたそうですが、
気兼ねをされていたようです。

長野県開拓団名簿のデータで検索すると該当するご一家がありました。

ご両親は満州で死亡。本人を含む兄妹3人は「死亡宣告」となっていました。
行方が分からず、亡くなったことになっていたのです。
5割以上が亡くなった開拓団でした。
終戦の時、その人は5才でした。よくぞナマエと長野県という地名を覚えていたと思います。

初めて見る実の両親や兄妹の名前。そして、自分の名前。

穏やかなその人は、奥さまと一緒に、明日はその村の役場に行ってみると言って
記念館を後にされました。

戦後の混乱の中国で、路頭に迷う日本の子供をひきとり帰国後も育てあげたご両親に、
きっと、親孝行されたのでしょう。
自分がどこの何者かは二の次にして。

名簿の生年月日によると、まもなく75歳。
75歳にしてはじめて自分はどこの何者かを知る・・・。

私たちはその場に立ち会うことになりました。
記念館というプラットホームで。
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by kinen330 | 2014-09-26 18:54

山河

「伊那谷は戦禍をまぬがれた地域です。でも、『満州』という傷は深く刻まれています。」

元義勇軍の「語り部」Yさんが、昨日の講話の冒頭に言いました。
記念館がある阿智村は南アルプスと中央アルプスに挟まれた伊那谷にあります。
この地域から日本で一番多くの開拓団が満州へ渡っていきました。
見えない傷が、刻まれた地域です。

「Y君が行くなら俺も行く」と、隣家の幼なじみT君も一緒に義勇軍として渡満しました。
昭和19年。長野県から渡満した最後の義勇軍の一つです。
まもなくソ連侵攻。ハルピンで冬を越します。
若い義勇軍の少年達も、収容所では寒さと栄養失調、病気の蔓延で大勢亡くなりました。
T君も冷たくなって息絶えてしまいました。

昭和21年10月、引揚げ。ようやく帰ってきた祖国日本の山河はとても美しかったそうです。
しかし、故郷に近づくにつれ、Y少年の気持ちは重たくなります。
T君の死をT君のご両親にどのように伝えればいいのか・・・。
Y少年のうなだれ、肩をふるわせる姿が浮かびます。


この日、Yさんは言いました。
「今思えば、この時の私の母親もどんなにつらかったか知れません。」
自分の子どもは生きて帰ってきた。しかし・・・。
Y少年のお母さんもY少年以上にうなだれたことでしょう。

「国破れて 山河あり」
Yさんは語り部の中で必ずおっしゃいます。
見えない傷が刻まれた、山河です。
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by kinen330 | 2014-09-13 19:09

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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