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帰ってきてから

「満州がえりのやっかい者」

命からがら引揚げてきた人たちに向けられた祖国日本社会からの眼差しは、
温かいものではありませんでした。
親戚の家を間借りし、食料を分けてもらい・・・。
生死の境をさまよい地獄を見てきた満州よりも、
日本に帰ってきてからの方が精神的に辛かったという人もいます。

満州へ行く時は盛大に見送ってくれた母村の人々の
「好きで満州へ行ったんだろう」という揶揄。

返す言葉を飲み込みながら、必死で生きてきたのです。
満州での傷を癒すこともできないまま。

「国策ってやつは恐ろしいものだなあ」
体験者のこの言葉に、いろいろな真実と示唆が
詰まっているような気がします。
by kinen330 | 2015-03-28 18:55

百恵ちゃん

「年齢がバレちゃいますけど、百恵ちゃんのドラマの『赤い運命』知ってます?」
「もちろん!赤いシリーズ、見てましたよ」
「あの殺人者の父親の設定が元満蒙開拓青少年義勇軍だったんですよ」
「ええ~っ!三國連太郎がやった役ですよね。知らなかった~」

名古屋から私と同世代の女性2人が来館され、
とても熱心に見学していってくださいました。
帰り際に窓口で昼神温泉行きのタクシーを手配され、
「私たち温泉に来た訳じゃないんです。ここを目的に来たんです」
と熱く語ってくださいました。
満蒙開拓に興味があったのですかとおたずねしたところ、上の会話となりました。

『赤い運命』は伊勢湾台風の混乱の中で、生まれたばかりの赤ちゃんが取り違えられてしまい
運命のいたずらで全く違う立場となった2人を描いたドラマでした。
かたや三國連太郎が演じる殺人者の娘。
かたやその殺人者を追う刑事、宇津井健の娘。
百恵ちゃんは殺人者の娘として孤児院から引き取られるかわいそうな役どころでした。
そのお父さん、三國連太郎は子どもながらに本当に怖い人に見えました。
(晩年はスーさんになってしまうのですが)

改めて調べてみると、元義勇軍の三國連太郎役は元上官や指導者への復讐で殺人に至るとのこと。
彼の過去に一体何があったのでしょうか。
そして、制作者たちは元義勇軍という設定で何を描こうとしていたのか・・・。
実は「国家」対「個人」という深いテーマがあったようです。
放映は1976年。戦後31年でした。

子ども時代に夢中で見た赤いシリーズの中にこのような背景があったとは。
40年ほど経って知る驚愕の事実でした。
年齢がバレちゃいますけど。
by kinen330 | 2015-03-18 18:25

70年とは

「もう忘れちゃったわ」

証言映像part2の制作に向けて取材をおこなっています。
先日お話しを聴いた86歳の女性Kさんは、多くの質問にこう答えました。
記憶が話すこと、思い出すことで蓄積されるものであるのなら、Kさんは「満州」についてはあまり蓄積せず生きてきたのでしょうか。それとも、辛い感情を人生の終盤にかけてフェードアウトされているのかもしれません。92歳になるご主人との穏やかな日常。その邪魔をしてはいけない、そんな権利もありません。

「70年もたたなければ話せなかったことがあるんです」

一方でこのように話すSさんのような人もいます。
開拓団で生まれ育ったSさんは物心ついた頃「ああ、私は日本人に生まれて良かった」とつくづく思ったそうです。それは日本人が「いばっておれた」から。現地の人々を使う立場にあったから・・・。そして、戦後はそう思ったことがとても恥ずかしくなったといいます。土地の収奪。開拓団もその一端を担っていたということがSさんを苦しめ、「満州」でのことは口にしなくなりました。
「でも、この“負の遺産”に向き合わなければ平和な社会を次世代に伝えることができないと思って。」
苦悩に向き合おうとする姿に、応えなければと思います。

悲しみや怒りといったむき出しの感情に出会うには長すぎる年月が経過しています。
70年。今、私たちは何を受けとめることができるのでしょうか。
心の奥の感情に耳をすませて・・・。
by kinen330 | 2015-03-09 19:05

祖父の人生

「大好きな祖父に最高の敬意と、皆の愛情と、この作品を捧げます。」

原稿用紙に印字されたもののコピーの束が記念館に寄せられました。
400字詰め原稿用紙40枚の大作。
お祖父さんが書き残した体験談をお孫さんが活字にしたものです。
表書きに上記の文がしたためてありました。

お祖父さんは明治40年生まれ。昭和5年に九州から「朝鮮」へ奥さまと二人移住します。
当時、日本の植民地であった「朝鮮」にも現地の開発などの目的で移住が奨励されていたようで、
お祖父さんたちの集団は九州のほか東北地方から計50家族が渡って行ったとのこと。
「大正中・末期、昭和のはじめにかけて国内的に移住熱が盛んな時期であり
 浮かれたと云うことでもなかったが、覚悟あって移住してきたものの
 日本内地での話とは誤差があった」 とあります。

知人の紹介があって昭和7年3月末、「満州国」建国直後の新京(現長春)に移住。
官吏を経て民間企業に移り錦州(現錦州市)へ、昭和19年に帰国して終戦を迎えました。

昭和5年から20年の激動の時代に、日本・朝鮮・満州を渡り歩いたお祖父さん。
平成8年、亡くなる少し前にこの記録文を書いたそうです。
自分が生きた証を――。

活字にしながらお孫さんは、お祖父さんの人生を共に生きたのでしょう。
そして、尊敬の念を抱いたのでしょう。
いいえ、それより前に大好きなおじいちゃんだったのでしょう。

祖父から孫へ、時を越えて伝えられた一人の人生が、生きた証が、
ここ記念館へ届きました。
天国でさぞ驚かれていることでしょう。

残してくだってありがとうございました。
伝えてくださってありがとうございました。
by kinen330 | 2015-03-06 19:34

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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