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記念館の役割

「55年生きてきたけど、これから先の人生、俺、生き方が変わるよ」

今日は開館2周年の記念日でした。
2年前の今日、へとへとになりながら開館を迎え、喜びに浸る間もなく、あまりの来館者と反響と問い合わせの多さにその日からまた怒濤の日々が始まったのでした。

でも、皆さまのお陰で記念館は私たちが思い描いていた以上の場になっているとしみじみ感じています。

今日は語り部の定期講演でした。県内の分村開拓団で満州に渡り、戦後は八路軍(中国共産党軍)に留用されて昭和28年に引き揚げてきたAさんのお話しでした。
凄惨な逃避行や収容所生活の生々しい話は、ご本人も「本当は話したくない」話。
でも、「平和を語るに少なくなった戦争体験者の一人」としての責任感から、語り部をしてくださっています。

「今になって、満州移民に応募した父の気持ちは分かる。でも、その裏には日本の国策の大きな失敗があった。中国の人たちの土地を取りあげたんです。」
「自分は子どもだったから責任はないと思っていたし、八路軍で新中国の建国に貢献したという自負があります。でも、開拓団は被害者でもあり加害者でもあった。侵略だったということを認めるべきだと私は思います。」

“被害と加害”ということばをよく使いますが、当人がそれを言うことの重さに、胸が痛みました。

「55年生きてきたけど、これから先の人生、俺、生き方が変わるよ」
聴講者の中のお一人の感想です。
この歴史との出会いや体験者の生の話を聴くことは、人の生き方まで変える力がある。
いえ、実際にそんなに変わらなくても、それほど心揺さぶられるものなのでしょう。

記念館は個人と社会、歴史と今をつなぐ場となっています。
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by kinen330 | 2015-04-25 18:55

男泣き

「男泣き」を辞書で引いたら「めったに泣かないはずの男が、たまりかねてなくこと」とありました。

この週末、開拓団関係者が遠くからも来てくださいました。

東京から家族で来館された男性Kさん82歳、出身はお隣の飯田市。
「私は○○開拓団でした。」

受付に貼ってある開拓団入植図で昔いたところを指さし、しばし佇み、そして、嗚咽されました。
「お父さんが泣くの、初めて見た」と隣にいる奥さまがハンカチを差し出し、娘さんが背中をさすっていました。

Kさんがいた開拓団は多くの犠牲者が出たところでした。
Kさんもお父さんが団本部で銃撃され、お母さんや兄妹たちもその後の収容所生活で亡くなります。
2歳年下の弟と二人きりの引揚げでした。

「食べるものがないのよ。コーリャンならまだまし。大豆の絞りかす。・・・大勢死んだ。」
展示を見終わり、名簿や資料を見ながら話をして、また涙されました。
よみがえる記憶。
こみ上げる思い。
あふれ出す感情を抑えることができなかったのでしょう。

「私は娘の結婚式でも泣かなかったんだけど・・・」と。

何度も頭を下げ、感無量という足どりで帰って行かれました。
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by kinen330 | 2015-04-19 19:25

今しかない

「“負の歴史”に向き合わなければ平和な社会を次世代に伝えることができない」

昨年、記念館でこのように話してくださった元開拓団のSさんのお宅に
証言映像取材にうかがいました。

「満州」での現地の人への差別の実態。
例えば、学校で中国語を教えてくれる中国人の先生を、
生徒たちはばかにして授業を聞かず無視していた。
子ども相手でさえ先生は何も言えない・・・。
「満州」で育ったSさんは何の疑問も持たなかった。
「日本人に生まれて良かった」と。
そして、今はそう思ったことをとても恥ずかしいとおっしゃいます。
子どもは大人の鏡。大人社会の実態は・・・想像に難くない。
「満州国」での日本人の立場とは。

元開拓団の人々はあまりこのような話をしません。
今まで語られてきた多くは逃避行や収容所生活での壮絶な体験。
もちろんこれらの話も戦争の悲惨さを伝えるものですが、
どこかに存在したひずみがあの結果を生んだことを追求しなければ
歴史は繰り返されてしまうのではないでしょうか。 

「満州」での差別の実態は、「満州」にいた日本人だけが問われるものではなく
今に生きる私たちも向き合わなければならない史実だと思います。

「今しかないと思います」
言いにくいことをなぜ話そうと思ったのですかとの問いに、
Sさんは真っ直ぐ私の目を見て言いました。
戦後70年。体験者たちが今だからこそ語る覚悟に応えたい。
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by kinen330 | 2015-04-04 18:55

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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