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エール

「戦後世代が政治をやっている時代なんだよ。もっと年寄りがブレーキをかけていくべきだ。こんなことが二度とあってはいけないよ。」

ボランティアKさんのガイドで展示をひと回り見終わった14名のグループ。玄関ホールで円陣になりひとしきり政治談義をしていました。
お見受けしたところ、60代の皆さん。来館者の中ではまだまだ若い世代です。
自分たちも戦後世代。もう一つ上の世代にエールを送ります。

自分はもう古い人間だから、と引っ込んでいてはいけません。
多くの体験をし社会を見てきた熟年世代の意見は貴いのです。
そういう人たちの意見に耳を傾けながら時代を作っていく。
スピード感はありませんが、スピードの陰の部分に気付く方が
結果的には着実な歩みになると思います。

もうひと踏ん張り! 
by kinen330 | 2015-05-31 19:18

日本語と中国語と

中国残留孤児国家賠償訴訟が全国各地で起こる前、残留婦人の立場から国家賠償を求め訴訟を起こした人物がいました。鈴木則子さん。1943年、14歳の時に一家で開拓団として渡満します。ほどなく両親共に病死。ソ連侵攻後の混乱で兄妹たちを亡くし、生死をさまよった末に中国人の養女となりました。

残留孤児肉親調査がはじまった時、国は「終戦時13歳以上だった人は自分の意志で中国に残った」とし支援の対象からはずします。“残留婦人”といわれる人たちです。「自分の意志で残った」とは―――。この判断をした人たちの人権感覚を疑います。

鈴木さんは1978年に国からの支援も何もない中、自力で帰国。1982年に「中国帰国者の会」を立ち上げ帰国者の支援活動に尽力しました。

今日はその「中国帰国者の会」の皆さんが東京から大型バス1台、約40名で来てくださり、中に鈴木さんの娘さんもいらっしゃいました。ほとんど帰国者2世といわれる世代で、日本語が分からない人が大半でした。
ちょうど今日は「語り部」定期講演で、「語り部」は残留孤児だったNさん。急遽、Nさんの話しを会のメンバーで来ていた3世のWさんという若者が通訳しながらの「語り部」となりました。
Nさんは日本語も中国語もできるのですが、いつも通り日本語で話し、Wさんが中国語に訳していきます。
父親が召集され、母親は収容所で亡くなり、かわいい弟も「トマトは赤くなったかなぁ」といって息をひきとります・・・。はじめは賑やかだった会場もいつのまにかシンとなっていました。ここにいる皆さんのお父さん、お母さんが同じような歴史を背負って生きてきたのです。
Nさんの日本語とWさんの中国語。涙があふれてきました。

鈴木則子さんが残した言葉をご紹介します。
「悲劇よりも批判の意識を持つことの大切さを伝えたい。私達のように易々と騙されてはいけない。国に対して批判や疑問を持たずにいるとどうなるか。自分の意志で考えてゆかないとどうなるか。大きな権力に流されてはいけない。」(山本宗補写真集『戦後はまだ・・・』より)
by kinen330 | 2015-05-23 19:19

おっちゃん

「♪~ルーズベルトのベルトが切れた、チャーチルチルチル首が散る~♪」

派っ手なシャツにカンカン帽をかぶった大阪のおっちゃんが、展示ガイドを終えたあと、
「あんたの説明を聞いとったら思い出したわ~」と歌ってくれました。

昭和9年生まれ。戦中戦後をたくましく生きた大阪の少年たちは、
GHQ占領下においても、このような歌で占領軍を囃し立て、
「ぎぶ みー ちょこれーと」 じゃなくて「はぶ あ ちょこれーと」と言いながら
手を差し出しジープをとり囲んだのだそうです。

中学しか出ずに働いたおっちゃんは商売を始めますが、客には進駐軍もいました。
いまだに数字は英語が口から出る、と言って
「はんどれっど、さうざんど、みりおん、びりおん・・・」と指を折りながらでっかい声でしゃべって行きました。


大阪のおっちゃんおばちゃんをこのように固定イメージで表現するのはどうかと思いましたが、今日のおっちゃんはこんなおっちゃんでした。

それにしても冒頭の歌、解釈しようによってはとても深い内容だなあと。
このようなはやり歌って、誰が元なのでしょうね。
by kinen330 | 2015-05-20 18:30

巡り合わせ

「武器を持つと、人間、穏やかでなくなります。」

今日は元青少年義勇軍の「語り部」Yさんと中学校へ行きました。
聴くのは中学2年生。Yさんが満州へ行くのを決めた年齢の生徒たちです。

Yさんは昭和20年の3月に満州へ渡ります。8月には敗戦。
ソ連侵攻時、近くの開拓団を警護しながら移動します。
その時、少年たちは銃を持って武装しました。
恐怖と興奮がない交ぜとなり昂揚していく少年たち・・・。
実弾を使う場面には至りませんでしたが、その先には狂気が待っていたことでしょう。

「15歳の少年に武器を持たせたんですよ」
あの時の穏やかでない自分の精神状態を、今なら冷静に見つめることができます。
そして、武器や戦場が人間の精神を異常にさせることを教えてくれます。

「このようなすばらしい学舎(まなびや)で勉強ができる、このような時代に巡り合わせた皆さんは幸せですね」

しみじみと語ったYさん。
私たちは二度と15歳の少年を戦場に送り出し
武器を持たせるような社会にしてはいけない。
by kinen330 | 2015-05-15 18:31

あの時のあの味

「自分がどこで生まれたのか、確認しに来ました。」

Iさん73歳。お父さんが教師で青少年義勇軍を送り出していました。
「記念館はずっと気になっていたけれど、来づらかった」そうです。

結局お父さんも教師として満州へ渡ります。
持参された資料には「郭爾羅斯前旗」といういかにも内蒙古的な地名が記載されていました。
記念館の入植図で探すと、ありました。今も当時も吉林省。ここがIさんが生まれた場所でした。

ソ連侵攻後は、お父さんが班長となり日本人150人くらいを引き連れて逃避行。行くさきざきで寝る場所の確保や食糧の調達などしながら移動していったといいます。
終戦の時3歳だったIさんはまったく記憶がないそうです。

「満州でのことは全然覚えていませんか」と尋ねたら
「いやぁ、笑い話ですけどね」といいながら・・・

終戦翌年の昭和21年7月、日本への引揚げ船に乗ります。
その船の中で“塩汁(しおじる)”なるものが配給になりました。要するに、少し塩味がついているスープです。その中にさつまいもの蔓が2~3キレ浮いていました。それが美味しくて美味しくて、大人の分まで「ちょうだい、ちょうだい」といって食べたのだそうです。

それまでの生活のひもじさが偲ばれます。

「さつまいもの蔓をお店でたまに見かけると今でも食べたくなります」
あの時のあの味。Iさんの唯一の満州の記憶です。
by kinen330 | 2015-05-06 18:53

今になって

「もっと話を聴いてあげればよかった・・・」

ここのところ記念館は連日100人を越える来館者で賑わっています。

愛知県から来た70代の男性。戦後の再入植地といわれるところにお住まいです。
ご本人は満州には関係ない方ですが、同じ地域に3世帯ほど満州から引き揚げて来た家族が入植されていたそうです。

「とても貧しくてね。ご主人が暴力を振るう人で奥さんがよく逃げてきていた。」
そんな家族もあったそうです。
日本は戦後の復興に加速をつけていった時代でした。

記念館に来て初めてあの人たちの過去・満州でこんな苦労があったのだと知りました。
「今では子どもたちも散りぢりばらばらで。・・・知らなかった。もっと話を聴いてあげればよかった・・・」

遠くを見るような表情で佇み、唇を震わせ、めがねをとってこみ上げる涙をぬぐっていました。

今になって知る満州での実態。
当人も語れなかった。
社会も聞く耳を持たなかった。
今になって・・・。この後悔の念を心に深く刻みましょう。
気付いた今が、貴い今となるように。
by kinen330 | 2015-05-01 19:33

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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