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言葉

「早く日本人じゃないようになるため中国語を覚えた」

昭和15年、6歳で満州へ渡ったNさんは戦後中国に8年間留まることになりました。
極寒の収容所生活で妹2人が亡くなり、生きるか死ぬかのむごい選択の中、姉を中国人の家に嫁にやるという条件で母親と自分と弟も命を救われることになったのです。

戦後の中国で日本人の子どもは「日本鬼子」。
外に出て日本人だと分かればひどい暴言を吐かればかにされました。
早く言葉を覚え、中国人になりきって働いたといいます。
終戦の年、11歳だったNさん。1年も経ったら日本語を忘れしゃべれなくなりました。

昭和28年、日本人の集団帰国の機会がありやっと帰国することができました。
しかし、中国人と結婚することになった姉にはすでに子どもが生まれており、一緒に帰ってくることができませんでした。

祖国日本で待っていた生活も、苦しいものでした。
日本語は聞いて理解できても、口からは出てきません。
今度は日本語を取り戻すために必死にならなければなりませんでした。
学校を勧められましたが、働かなければ生きていくことができず断念。
今でも学校に行けなかったことが一番くやしい。思ったことが言葉にできないもどかしさを感じているとおっしゃいます。

中国で生きていくために日本語を忘れた少年。
成長期、自分の思考が形成されていく時期に母国語を捨てざるを得なかったNさん。
言葉と同時に失ったものは、言葉と同じように取り戻すことはできません。
戦争や国策に翻弄された人々は、今でも苦悩しています。
自分を取り戻すために。
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by kinen330 | 2015-07-26 18:52

懺悔

「晩年、祖父はいつも懺悔、懺悔と言いお経をあげていたんです」

お祖父さんが開拓団の団長をしていたという女性Sさんが来館されました。
村では大きい地主の家柄。曾お祖父さんは地域のリーダーとして満州への分村を決定し進めた一人でした。
入植した土地は良くお米も野菜も順調で、養蜂をすると余るほどはちみつが採れたといいます。
翌年から個人経営に移行しようとしていた矢先にソ連侵攻。敗戦となりました。

逃避行や収容所生活で多くの仲間が亡くなりました。
引き揚げ港のコロ島に向かう途中、八路軍(中国共産党軍)の兵士から日本がおこなった土地収奪の話しを聴き、はじめて自分たちが侵略者であったことに気付かされたといいます。

引き揚げ後は集団で母村とは離れた別の場所へ再入植。森林原野を切り拓く厳しい開拓生活が待っていました。

「開拓乞食と言われました」
再入植地での生活は厳しく、着る物もほかの人たちとは違っていました。
さげすみの言葉も投げつけられました。
それでも戦後生まれのSさんは、その生活が当たり前とあまり苦にしなかったそうです。

戦後も引き揚げて来た開拓団の互助組織のリーダーとして奔走するお祖父さん。
しかしSさんはお祖父さんから満蒙開拓の話しはほとんど聞かなかったそうです。
今になって思い出す晩年の姿。
耳に残っている「懺悔、懺悔」。
誰に対してだったのか。何に対してだったのか。

Sさんは今、高齢になった元開拓団関係者を訪ね話しを聞いてまわっています。
向き合いにくい歴史にも向き合い、真の平和を追求することが自分に課せられた使命であると。
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by kinen330 | 2015-07-19 09:58

キセキの時空間

「仲間と来ようと思っていたんだけど都合が合わなくて。一人で来ました。どうしても来たくて。」

千葉県から来てくださったMさん。リュックを右肩にかけ、受付でこのようなやりとりをし、展示コーナーに入っていかれました。

直後に愛知県から60~70代のおじさま達20名が来館され展示ガイド。
ちょうど青少年義勇軍のコーナーでMさんに追いつきました。
「義勇軍は全国から9万2千人が送出されました」と説明すると、
「その中の一人です」とMさん。
昭和15年に満州へ渡った元青少年義勇軍。なんと御年90歳。

団体のおじさま達から「ほ~」という声があがりました。
それは、体験者本人との出会いという驚きの「ほ~」と
とても90歳には見えないという感心の「ほ~」。

ガイドを終えると、数人のおじさま達がMさんを取り囲んで体験談を聞き始めました。
ソ連侵攻時は満州の北西部、興安嶺という山脈の麓で陣を取り、
10キロもの爆薬を胸に抱えて敵の戦車に突っ込むという特攻作戦が命ぜられていました。
地響きを立ててソ連軍の戦車が向かってきます。
「なるべく大きい戦車の下に突っ込んでやろうと思っていた」と。
いよいよ近くまで来たと覚悟を決めていたら、急に静かになりました。
 ――― 降伏。
「間一髪でしたね~。」
息を詰めて聴いていたおじさまがねぎらいのことばをかけていました。

記念館では時々このような“即興語り部”が来館者同士の中で生まれます。
それは聴く人がいて語る人がいて、その場で創られるキセキのような時空間です。

「来てよかった。今度は仲間と来ます。」
Mさんはリュックを右肩にかけ、バス停までの登り坂をさっそうと歩いて帰られました。
すばらしい聴き手となったおじさま達はマイクロバスに乗り込んで「お姉さんもステキだったよ~」と調子良く言って帰っていかれました。
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by kinen330 | 2015-07-12 18:47

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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