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父の生き方

中国帰国者2世の女性Sさん。記念館には2回目の来館です。
「ふるさとに帰ってきたような感じがする」と言ってくれます。

Sさんのお父さんは長野県内の某開拓団で渡満。近くに関東軍の重要基地があったので、ソ連侵攻時には「敗走する日本軍とそれを追うソ連軍の陸・空両面からの攻撃にまきこまれ(『長野県満州開拓史各団編』より)」団員の約6割が亡くなりました。
お父さんは終戦当時13歳。川を渡ろうとしているところを襲撃され、近くで1歳の弟が頭を撃たれて亡くなるなど惨劇を見てきました。両親を失い、生き延びた妹と二人、中国の人に育てられました。
昭和59年に帰国。お父さんは自分の名前も出身地もしっかり覚えていました。出身地でも温かく迎えてくれたそうです。Sさんは8人兄弟の長女。23歳だったそうです。

「8人も子どもを連れて帰って迷惑をかけているから」と、お父さんは生活保護費を受けとりませんでした。そして、子どもたちに「働け、働け」と言いました。Sさんは帰国当時、手にケガをしていたのですが、それでも「働け」と。「お父さん、まじめな人だったから・・・」。お父さんなりの精一杯の祖国への誠意だったのでしょうか。

Sさんは日本語もできない状況で車の運転免許を取得。「漢字が読めたから」と言いますが、その苦労ははかり知れません。
それでも「日本に帰ってきて良かったのよ」と。中国ではきょうだいのうち二人が大学への進学を希望していたのですが、日本人だからという理由で断られたというのです。

お父さんの七回忌を終えた最近になって、よくお父さんの夢を見るのだそうです。
逃避行の時の話しをいつも泣きながら話してくれたそうです。
Sさんにとって記念館は、遠いふるさととお父さんにつながるなつかしい場所なのかもしれません。
by kinen330 | 2016-01-25 19:16

つながった記憶

戦後70年を機に、姉妹3人が満州からの引き揚げ記を冊子にしました。
といっても引き揚げ時は8才、6才、4才。「子どもの目に残っているわずかな記憶をまとめたもの」とのことですが、お父様の遺言状やお母様が50年近く前に書いた体験記も入ったもので、家族の歴史となっています。
このYさんご一家、お父様は終戦時、満州国の某地方の副県長の立場にありました。ソ連侵攻後、県内にいた沖縄県の開拓団、鳥取県の義勇隊と一般人合わせて約300人の日本人を率いて逃避行となります。しかし途中襲撃を受けてお父様は絶命。遺言状は逃避行をする直前にしたためたものでした。

お母様は5人の子どもたちを連れて逃避行を続けます。収容所で下の弟2人は栄養失調と病気で亡くなりました。その避難生活を共にし一家を見守ったのが鳥取県の義勇隊のお兄さんたちでした。昼間働きに出た彼らは時々「黄色の線の入ったクリームパン」を買ってきてくれます。「夢のようなパン」でした。歌を歌ったり楽しく遊んでくれたそうです。
「親分肌のKさん」「帽子を斜めにかぶった冗談好きのHさん」「コートをキチンと着た真面目なYさん」・・・。おぼろげな少女たちの記憶の中に鮮明に残っている義勇隊のお兄さんたちの姿。

実はこの義勇隊に所属していた方が、当記念館開館日2013年4月25日にわざわざお一人で鳥取県から資料持参で来てくださっていました。寄贈いただいた隊の記念誌にはYさんのお父様の記述もありました。コピーをお送りしたら「この記録が今、私の手もとにあることは奇蹟としか言いようがありません」と大変感激された様子のお手紙をいただきました。
義勇隊の方にお電話をしたら、Yさんが亡くなったことやご遺体を途中の川で水葬したことなど覚えていらっしゃいました。「気の毒だった」と。
今後、双方で連絡をとりあうことになりました。

このブログの名前はプラットホームといいます。
時空を超えて人や物、情報が行き交う記念館。
その橋渡しをすることが私たちの役目であり、喜びです。
by kinen330 | 2016-01-10 12:17

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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