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千代ちゃんの満州

「僕のお嫁さんになってくれないか」

昭和10年生まれの千代さん82歳。
「語り部」をしてくださる方が減っていく中、昨日、「語り部」デビューしてくださいました。

父親が決めた満州の土地は水田が広がる朝鮮族の集落でした。
小学校に入学しましたがなじめず、サボるようになりました。
「なんとなし、いやだったんです」
日本人は一人だけ。言葉が通じないわけではありません。
学校での教育は朝鮮語でもなく中国語でもなく、日本語でした。
日本語が強制されていたのです。
子どもたちも「きれいな日本語」を話していたそうです。
そして朝鮮語を話した子どもは「ひどく怒られて連れて行かれて・・・」。
もしかして、千代ちゃんはそのような空気がいやだったのかもしれません。

一旦、祖父母と一緒に日本へ帰り、2年生の冬になって再び満州へ。
そこは同じ故郷から送出された開拓団の集落でした。
集落の中に現地中国の人たちも住んでいました。
結婚式に呼ばれてご馳走をいただいたこともあったそうです。
子どもたちもいました。
新郎新婦の様子を見て、いいなと思ったのでしょうか。
「僕のお嫁さんになってくれないか」
中国の男の子に言われたそうです。
淡い思い出話に会場は一瞬温かい笑いに包まれました。

子どもの世界は大人の世界の鏡だと思います。
満州ではさまざまな民族間の軋轢がありました。
開拓団の中でも、子どもたちが中国語を教える中国の先生をバカにして
ろくに授業を聞かなかったという話もあります。

子どもの目から見た満州の話に、当時の空気が透けて見えてきます。
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by kinen330 | 2016-06-26 10:19

何より大切なこと

「何より大切なことを話してくれたと思います。」

語り部のCさんに直接お礼を言いたくてとお電話をいただきました。

Cさんのお話しは体験談以外に時として難しい歴史の話になります。
満州事変から始まりノモンハン事件へ。関東軍の参謀たちの名前が次々出てきます。
「満州国」建国、開拓団送出に関わる人々の思惑。試験移民が入植した土地は現地の人々をわずかなお金で立ち退かしたという実態。敗戦直前の関東軍の兵力や作戦…。

昨日のCさんの話はほぼこのような内容で終始してしまいました。

「もっと体験談を話してほしかった」との声。
時折心配して聴きに来るCさんの娘さんも「みんな満州での大変だった話を聴きたいんだよ」と助言しているとのこと。
実は昨日は私も「半分は体験談を話してください、Cさんしか話せない話を」とお願いしておりました。

聴講者にウケる話をする必要はないと思っています。
話したいことを話してほしい。そう思います。
でも、体験者しか話せない話があり、それを直接聴くことで人々はその言葉の重さや、今でも苦悩するご本人の姿に戦争とは何か、人間とは何かを考えさせられるのだと思います。

では、Cさんが話したいこととは。
Cさんは昭和10年生まれ。5歳の時に渡満し10歳で終戦。地獄を見てきました。引き揚げ後も辛酸をなめます。自分が選択した満州ではなかったのに。
戦後、満蒙開拓とは何だったのかを懸命に問い続け、あらゆる本や資料を読みあさります。
そして今、噛みしめるように話されます。「国策だとか関東軍に捨てられたなどというが、やはり自分の責任だと思います」「私たち開拓団は被害者であり加害者だった」と。
この言葉を語るまでにどれだけの逡巡、葛藤があったでしょうか。

Cさんが語りたいことは、被害だけではない、なぜこのようなことになったのか。
“なぜ”というところなのです。
そしてそれは「何より大切なこと」なのかもしれません。
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by kinen330 | 2016-06-18 18:15

「負の遺産」を「正の遺産」へ

「過去のことを決めつけて見るのではなく学ぶことが大切だと思った」
「戦争は人間を変えてしまうということが分かった」
「命の尊さや人権について考えることができた。僕たちは集団で生活しているのでそれを大切にしていきたい」

麦秋の松本平。青空に映える残雪の北アルプス。
北へ北へと車で2時間半。
昨日、飯山市の中学校へ講演に行ってきました。

3年生約80人。薄暗い体育館でパワーポイントを使いながらの講演です。
若い世代への講演では、過去のことをどれだけ現在に、自分自身に引き付けて考えられるかを念頭に置いて話します。それにはまず自分から。私自身が満州での逃避行で母親たちが背負った苦難を「自分だったら・・・」と切実に受け止めたことを話します。

さまざまな視点で「満蒙開拓」の歴史をたどりながら、最後に、飯山地域から送出された下水内郷開拓団に触れました。
昭和15年に入植した下水内郷開拓団。かつての飯山町と周辺9村が送出を決め、各町村に割当をし、最終的には600人余が在籍します。しかし終戦時には100人以上の男性団員が召集され、残された婦女子らが悲惨な逃避行を余儀なくされます。7割が亡くなりました。

逃避行で8か月の乳飲み子を置いてきた女性の手記の一部を紹介しました。
その人を責めることができるでしょうか。
その人が追い込まれた状況と、戦後抱えてきた苦悩に寄り添いました。

冒頭は講演後に挙手をして述べてくれた感想の一部です。
来てよかったと思いました。

ポルポト政権下、同じ国民同士の殺戮が繰り広げられたカンボジアの教科書にはこのように記述されているそうです。
「我々カンボジア人は、あの暗黒の時代と向き合って初めて他の国でもおこり得るこのような大量虐殺を阻止できる国民になれるのだ」

長野県が開拓団をたくさん送り出したという歴史は決して誇れる歴史ではありません。でもだからこそ、この歴史と向き合い学ぶことで、このようなことが繰り返されることを阻止できる人になれるのではないかと思います。

「負の遺産」を「正の遺産」に置き換えていくこと。それはまず学ぶことから。
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by kinen330 | 2016-06-04 10:48

記憶をたどる

「ここへどうしても来たいって言うから連れてきたんです」

三重県から7人連れのご親族ご一行さまが来館されました。
今日の主役は83歳のおじいちゃんMさんです。

父親が農業技術指導員でした。
全国から募集された瑞穂村開拓団に数年滞在していました。一家も一緒に満州へ。
そこの団長さんの名前をフルネームで憶えていて、その名前が資料にありました。
「子供だったのに、よく憶えてたね~。すごい!」

その後、長野県から送出された新京(現長春)近くの開拓団に移りました。
そこでは開拓団の国民学校へ通学。
その先生の名前も憶えていて、名前が名簿にありました。
女の先生が「小さな娘をおんぶしながら子供たちを教えていた」そうです。
Mさん、目が真っ赤になってきました。

なんと当のお父さんの名前も、北海道農法についての記述の中に発見!
親族はみんな盛り上がり、Mさんも感無量の表情です。

いつもは「また始まった」と満州での話はあまり聞かないという息子さんも
「あんなに生き生きして」とMさんの様子を見つめていました。

Mさんにとっては子供時代を過ごした忘れられない満州。
家族とともに生きた満州。
記念館はその証を確かめる場所なのかもしれません。
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by kinen330 | 2016-06-02 19:45

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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