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残しておきたかったこと

「今日は中国人の偉大さを証言しに来た」

昭和4年生まれのKさん。息子さんが車椅子を押し、奥様もご一緒でした。
受付でまずこの言葉。何やら意を決した様子です。

新京(現長春)の師範学校に入学。
当時、増加する満州移民に対応するため現地の教師を現地で養成する学校も作られました。
Kさんの村には、この師範学校への入学者の割り当てが3人あったそうです。

結局、敗戦後は昭和21年6月の引揚げまで撫順炭鉱で働きます。
この炭鉱である日、落盤事故がありました。
その時、仲間のマツダ君を助けてくれたのが、中国人の「ラオシーズ」でした。
「ラオシーズ」のラオは「老」。年配の人への敬称です。
血だらけで生き埋めになっていたマツダ君を引きずり出してくれました。
「ラオシーズがいなかったら、命はなかった。」

Kさんは、満州での体験を思い出すのがつらくてずっと記念館に来れなかったのだそうです。
でも、今日、来てくれました。
そして、どうしても言っておきたかったことは、自分の苦労話ではなく
「中国人の偉大さ」だったのです。

帰り際に「よく来てくださいましたね」と声をかけたら
「やれやれだ」と穏やかな顔をされていました。
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by kinen330 | 2016-07-30 18:49

27万通りの「満州」

ソ連侵攻後の開拓団が辿った運命はさまざまで、
27万人の開拓団のうち8万人が犠牲になっているという数字だけみても
多くの開拓団が大変な目に遭ったと考えられます。
なので、敗戦後も現地の開拓団にとどまり、
農作業を続けていたという話に、耳を疑いました。

岐阜県から分村開拓団で渡満したTさん84歳。
入植地は北安省。ハルビンよりも北に位置します。
開拓史の記述には、8月初めの大雨で道路が寸断、橋は流され
外部との交通が閉ざされていたことが幸いしたとのこと。
その後も現地住民からの襲撃もなく、
一応武装解除ということで最寄りの街まで武器弾薬を送り届け、
夜も集落の門は開けっ放し。
この無抵抗主義がかえって功を奏したようで、
その後引き揚げまでトラブルによる犠牲者は一人もなかったそうです。

しかし、引き揚げ途中で若い人たち52名は八路軍に残留を命ぜられ、炭鉱へ。
この留用生活では過労と栄養失調で17名が命を落としました。
Tさんも両親と別れ別れになり残留。昭和24年に帰国した時には
母親が病で亡くなっていたそうです。

「現地の人たちにもとてもお世話になったのよ」とTさん。
聞けば、現地住民とは良好な関係で、
国交正常化後に訪問した時は大歓迎してくれたとのこと。
「開拓団の時はとっても良かったの」
懐かしそうに語るTさんでした。

開拓団27万人。27万通りの「満州」があります。
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by kinen330 | 2016-07-16 18:47

分村

「今さらそんな話をするもんじゃない」
「村の恥部をさらすことになる」

分村で開拓団を送り出したA村。
当時人口の3割以上が渡満しました。
そのお陰で村には手厚い補助金が入りました。
しかし、満州で半数以上が犠牲になります。
引き揚げてきた人々の一部は村を離れ、集団で別の村へ。
戦後の再入植地でも苦労が続きました。

今になって、満蒙開拓の歴史が各地で語られるようになってきました。

・・・村民を満州に送り出した村。
・・・引き揚げてきた人たちを追い出した村。

村の人々にとって、満蒙開拓は触れてほしくない歴史。
それを語ることは村の恥という考えの人もいます。

戦後70年。今でも、どこの誰々がどうしたからこうなった・・・
といった生々しい話がひそひそ声で語られています。
向き合いにくい歴史なのです。

でも、A村の歴史はA村だけのものではない。
この先、形は違ってもA村になる可能性はどこの自治体にでもあるのです。
だからこそ、A村が背負い抱えてきた歴史を、
社会の歴史として、日本の歴史として捉えていきたい。
その苦しみ、慙愧の念に寄り添いながら、歴史を学んでいければと思います。
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by kinen330 | 2016-07-06 17:31

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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