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母の決断

「自分がいなければ、母は満州に行かんで済んだんやないかと思うんです」

昭和20年5月。近隣の都市が空襲を受け、人々は満州に活路を見出していました。
弟がまだ生後4ヶ月だったので、母親の親族は満州行きに反対でした。
出発の駅に見送りに来た母親の姉妹たちが、その場でまだ行くのを止めていたそうです。

5月に渡満した開拓団でしたが、男たちはほどなく召集。
まだ乳飲み子だった弟は逃避行の列車の中で、母親は収容所で亡くなりました。

自分がいなければ、弟だけだったら、
あの時母親は満州に行かないという決断もできた。
死なずに済んだのかもしれない…。
Sさんは当時12歳でした。
子どもとは別れられない。
そうやって、満州行きを決断した母親たちもいました。

誰を恨んだらいいのでしょう。
巡り巡って、自分を責めるしかなかったのかもしれません。

84歳のSさん。4人のお孫さんに恵まれ、今日は義理の息子さんが遠路、車で連れてきてくれました。
今夜は二人で温泉に入りながら、「満州」に繋がる夜空を眺めていることでしょう。


by kinen330 | 2017-05-20 00:00

あの時の収容所で

「その河があってこそ死ぬことができるという喜び」

「死」にしか望みがないという極限の状況。
大兵庫開拓団は逃避行の中で暴徒化した現地住民に追い込まれ、死ぬ術もなく、
近くのホラン河へ集団入水自決を決行し、298人が亡くなりました。
親が子供を投げ入れ、大人がその後を追う。
河は人で溢れたそうです。

「わしは満州へ行くんだ」
大兵庫開拓団で渡満が決まったY少年は学校で言いふらしました。
子どもながらに「お国のためになるんだ」とうれしかったそうです。
満州へ渡ると、早く中国語を覚えようと現地の友達づくりに励みます。
中国人一家と家族ぐるみでお付き合いをしていたそうです。
そんなY少年もこの集団入水自決に巻き込まれました。
お兄さんと背中合わせにゲートルで縛られ、父親に押してもらい河に飛び込みました。
意識を失いますが、岸に流されて気が付きます。
背中の兄は白目をむいていました。
「兄貴はうまいことやったな。わしは死ねなんだ」
残される方が怖かった・・・。

生き残った人々はハルビンの収容所で越冬。
Y少年は家族5人を亡くし独りぼっちになりました。
絶望の収容所生活の中、「生きて帰るんだ」と励ましてくれたのが長野県の旧楢川村開拓団の人たちでした。
歌を教えてくれたり、食器を楽器代わりにたたいて演奏会をしたり。
Y少年はこの人たちのことをずっと忘れずにいました。
「渡辺さん、大草さん、小島さん」名前も覚えていました。
いつか再会してお礼を言いたいと思っていました。

このY少年と楢川村開拓団の人たちが、記念館で71年ぶりの再会を果たしました。
あの時、あの収容所にいた人たち。
3名は亡くなっていましたが、兄妹や親族らが涙で手を握り合いました。
「覚えていてくれてありがとう」
「今の自分があるのは皆さんのおかげです」

Y少年は戦後も苦労の連続でした。
「いらんもんが帰ってきた」と親戚の家をたらい回し。
「腹一杯食べることはいかん、ここでやめないかん」と常に遠慮していました。
でも「誰も恨まず、笑顔を忘れず生きてきた」との言葉通り、とても魅力的なおじいちゃんです。
Yさんの人柄と楢川村開拓団の人たちの温かさが引き寄せた感激の再会でした。
by kinen330 | 2017-05-12 19:22

せいせいと

飲まず食わずの逃避行。
寝るところもなく湿地帯の水の中で一夜を明かすが
お腹がすいて眠ることもできない。
7ヶ月の身重で1才の娘を連れて歩くYさん。
裸足で足が痛くて、ひもじくて、苦しい。
「子どものない人が羨ましくてならなかった。」
列に遅れないように歩くが、衰弱して歩行困難になる。

「みんな次から次と子供を殺してせいせいとしたような顔をしている」
私もいっそ・・・、何度となく考える。
その後の収容所生活は更なる地獄が待っていた。

ようやく帰国の途についた女たち。
「子どもだけを殺して、自分ばかり帰った」と言われはしないか。

そんな女たちがたくさんいた。
哀しみを抱えて生きてきた。
尊厳を奪われた人々。
誰が責められようか。
by kinen330 | 2017-05-01 18:32

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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