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一緒に帰ろう

S開拓団は端から端まで約15キロ。
学校まで10キロ以上もあったNさんは、1年生の時から親元を離れて寄宿舎生活を送りました。
寄宿舎には男女合わせて60人程いたそうです。
宿題も、お菓子を配るのも、上級生が面倒をみてくれましたが、
寂しい夜には友達のふとんにもぐりこんだそうです。

敗戦後、S開拓団も混乱の中で自決をする人たちがでてきました。
同級生も3人亡くなりました。
Nさん一家も自決を覚悟で集落を出ますが、
中国人の長老が引き止めてくれました。

今、「幸せだなあ」と思う時、ふと、寄宿舎で一緒に過ごした友達の顔が浮かびます。
満州に残してきた友達。満州の土となって眠る同級生たち。
今年の5月、戦後になって初めて旧満州の開拓団跡地を訪れました。
「一緒に帰ろう。連れて帰るんだ」という思いでした。

訪中を終え、やっと自分の戦後も終わるんだなあと思ったそうですが、
これで終わってはいけないと、語り部を始めてくださいました。
「語りたくても語れない人もいるんだよ」と
奥さまが背中を押してくれるそうです。



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by kinen330 | 2017-10-30 18:29

感謝状

額に入った大きな感謝状を手に、Tさん夫妻が来館されました。
平成8年。当時の県知事から、中国帰国者の身元引受人を務めたTさんへ贈られたものでした。

受け入れたのは、泰阜村開拓団で残留婦人となっていたSさん。
一家は満州で全員死亡したとして親戚が財産処分をしていたため
「帰って来ては困る」と身元引受人を拒みました。
そこで、帰国者支援に奔走していた中島多鶴さんが、
知人で会社経営者であるTさんに頼んだのだそうです。

Tさんは軽く引き受けたのですが、
帰国1ヶ月前になって役場から、住居を用意しておくようにとの連絡。
さあ困った、とTさんは使っていない事務所にお風呂とトイレを増設するなどリフォームして
Sさんと息子さん一家5人を迎えました。

息子さんを会社で雇って仕事を教え、
そのお嫁さんは中国の人で日本に馴染めず泣いてばかり、
小学校に通い始めた孫娘は2ヶ月で日本語を覚えた・・・などなど。
当時の帰国者と引受人になった人々双方のご苦労が偲ばれました。
一家は6年ほど経って自立され、Sさんは3年前に亡くなりました。

「よく美味しい餃子を作ってくれた」という奥さん。
「息子からはその後何の音沙汰もない」と苦笑いのTさん。

そんな話をお聞きしながら、
血まなこになって帰国者支援に尽くした多鶴さんの姿や、
祖国日本への望郷の念を募らせ、涙ながらに書いた残留婦人の手紙が浮かびました。
そして、Tさんのような方々がいたことも
歴史の一つとして刻んでおかなければと思いました。





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by kinen330 | 2017-10-26 19:40

伝言

「泰阜(やすおか)の皆さんに申し訳なかった」

千葉県から来た男性がガイドをした後に話しかけてくださいました。
数年前に亡くなった近所の人が満州から引き揚げて来た人だったと。
その人は日本人の引き揚げが始まって、ある集団を引き揚げ港のコロ島まで連れて行くリーダー役を任されました。

引き揚げ列車は石炭を積む貨車や無蓋車だったといいます。
進んでは止まり、止まっては動き出す。その繰り返し。
用を足したい人は、止まっている時に急いで列車から降りて済ませます。
女の人たちは少し離れたところまで行っていました。
ある時、列車が急に動き出し、何人かの女性たちが取り残されたというのです。
それが、長野県の泰阜村の人たちだったと。

日本に引き揚げてきてからも、そのことがずっと気になっていました。
あの女性たちは無事に日本に帰れただろうか。
晩年になっても涙を流しながら話していたそうです。

こうして一人ひとり、責任や罪悪感を背負って戦後も生きてこられたのです。
無念の思いを抱え、自分を責めながら、懺悔しながら、

謝るべき人は誰なのか。
背負わせたのは何なのか。

「泰阜の皆さんに申し訳なかった」
この思いを私たちもいつまでもいつまでも背負っていきましょう。
戦争とは、国策とは何なのかを問い続けながら。





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by kinen330 | 2017-10-13 18:53

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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