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被告席

「服を脱いでシャワー室に入れられ、
 濡れた裸のまま 男たちに髪の毛を丸刈りにされ、
 投げつけられた服を下着もないまま着る。
 窓に映った姿を見ても どれが自分か分からなかった。」

1944年、ハンガリー領になったルーマニア西部の町から
アウシュビッツへ収容されたヘディさん94歳のお話を
オンライン講座でお聴きしました。
その町に住んでいた3万人のユダヤ人のうち
生還できたのは2千人だったそうです。
ヘディさんも両親や友だちを亡くしました。

「50年間、話すことができなかった。」
あの恐怖、あの屈辱、怒りや恨み、悲しみや苦しみを心の奥底に沈めたまま。

2015年、ドイツで元ナチ親衛隊 オスカー・グレーニングの裁判が行われました。
ヘディさんはその裁判に出廷し、証人の一人として自分の体験を証言しました。
「ドイツへ行きたくなかったが、声を奪われた人々、
 亡くなった人たちのために行こうと思った。」
この史実にしっかりと向き合うドイツの若い世代の人々とも出会うことができました。
この体験についてヘディさんは、
「亡き両親のお墓に花を供えられたような思い。
 ドイツへの憎しみから解放された。肩の荷が下りた」と語りました。

被告席に座ったグレーニングは当時93歳。
ドイツは今でもナチの犯罪を問い続けています。

では、被害と加害が絡み合う「満州」の犠牲に対して
被告席に座るのは誰なのでしょうか。
空席のまま77年。
せめて、この歴史に向き合い続け、当事者のお話を聴くことが、
私たちの責任だと思います。


# by kinen330 | 2022-10-30 13:40

国交正常化

半年ぶりに来ていただいた語り部Kさん。
12歳で終戦を迎え、両親を亡くし、中国養父母に育てられました。

文化大革命の真っ只中、日本との国交が回復するという噂が聞こえてきました。
1971年、名古屋で開催された世界卓球選手権に中国が参加。
いわゆる「ピンポン外交」のきっかけとなったその新聞記事を目にします。

1972年、日中国交正常化。
「日本に帰りたかったけど、帰れるとは思っていなかった。」
あきらめていた帰国。
情報が閉ざされた中国農村部で生活していた残留邦人にとって
そのニュースはどれほどの衝撃だったでしょう。

国交正常化から50年という節目をKさんはどのように受けとめているのか。
さぞ、感慨深いだろうとたずねてみると、
「もうちょっと早ければね。」

そのニュースが届き、すぐに手続きをしたKさん。
身元引受人をお願いするのに何度も何度も手紙を書き、ようやく1974年に帰国。41歳でした。
その後、忘れていた日本語を取り戻しながら、中国人の妻と7人のこどもたちを
必死に育ててきました。
同世代の人たちは中学、高校と進学し、高度経済成長の恩恵を少なからず享受し、
当たり前のように日本での暮らしを営んでいました。
バスに乗ってもアナウンスが分からず、病院にかかるにも言葉が通じず、
ホームシックにかかる妻や学校になじめない子どもたちの不安や不満を一身に背負い、
がむしゃらに生きてきたKさん。
もう少し、早く帰国できていれば・・・。

50年の感慨、などではない。
遅かった。
遅かったのです。

# by kinen330 | 2022-10-24 20:41

6歳の記憶

突風が吹く季節になると、草ぶきの屋根がときどき飛んでいってしまって、
それを妹と二人、「おもしろいなー」とのん気に見上げていた。

近くの中国人の家に遊びに行くと、家具も何もなくて、子どもながらに貧しさが分かった。
でも、「佐藤さんちのショーハイ(子ども)が来た」と言って
とうもろこしの粉を溶かして焼いた「チェンペン」を作って食べさせてくれた。

・・・・・
昭和14年、満州の開拓団で生まれたTさん。
大自然の中でのびのびと育ち生活しておられたことが
話の端々から伝わってきます。
終戦時はまだ6歳でしたが、
逃避行の中で子どもたちが捨てられていく姿、
母親たちが我が子を手にかけてきた姿、
妹が人差し指と親指で小さな丸をつくり
「これっぽっちでいいから白いごはんちょうだい」と言って亡くなったことなどが、
目に、記憶に、焼き付いています。

「あなたの年代が、満州を語れる最後の年代ですよ」
ある人のこの言葉に背中を押され、語り始めました。
「亡くなった大ぜいの子どもたちへの報いです。
 苦労した親たちの分まで語り残さなければ。」

それぞれの満州がありました。
Tさんの満州にも、耳を傾けてみましょう。

# by kinen330 | 2022-10-16 19:08

重なり合う記憶が

「長野の人たちが機銃掃射にあってたくさん亡くなったと聞いたけど、大丈夫でしたか。」

語り部Mさんに会うや、開口一番、昨日のことのようにその安否を尋ねたご年配の男性。
この方は父親が軍関係者で牡丹江に住んでおり、ソ連侵攻とともに母親と二人で逃避行。
戦禍の中を逃げ惑い、松花江に出て、依蘭の近くで長野の人たちの悲報を聴いたのだそうです。
結局、方正まだ辿り着き収容所に入りました。
「周りの中国の人たちが子どもを欲しがってね、大勢もらいに来るんですよ。」
この方は60を過ぎた一人暮らしの男性が「ひと冬うちに来い」と預かってくれました。
「あの人に助けてもらわなければ、私たちはもうだめだったと思う。」

昨日の語り部定期講演には、父親が元満鉄、もう一人は医療関係者でそれぞれ1歳の時に奉天から引揚げてきたというお二人の男性も聴きに来てくださいました。
無蓋列車に乗って引揚げ港の葫蘆島まで移動。
走っては停まり、停まっては動き出すコンテナの貨物列車。
雨が降るとびしょ濡れになり、途中で用を足しに降りると乗り込むのがひと苦労で、みんなに引っ張り上げてもらった・・・。
かつて母親から聴いた話が、Mさんの語りと重なります。

Mさんの妹さんや、愛知県からの元開拓団員Hさんもおられたので、なんと6人の満州体験者が集った昨日の講演。
それぞれの記憶が重なり合い、幻の「満州」が立ち昇ってくるようでした。

# by kinen330 | 2022-10-09 11:03

高校生レポート

「当時開拓民は勝手に大陸に渡ったんですよ(残留孤児さがしの訴えに対する国の対応の場面)」という文章の「勝手に」という部分を読んだ瞬間に「は?」と声に出しそうになりました。

慈昭がこのように孤児のためにと考えたり行動を起こしたりできたのは、少なからず自分を責めていたからだと思いました。

日本に来たからといって、日本で暮らすからといって、日本人でいなければいけないというのは違うと思いました。その人はその人らしく生きたらいいと思います。

G高校3年4組。今週末開催された文化祭に向けて取り組んできたテーマは「中国残留孤児」。
彼らは夏休みに山本慈昭の半生を描いた『望郷の鐘』を読み進めながら、記念館に来館して満蒙開拓の歴史を学び、同時代にあった中国人強制労働のことも学び、フィリピン残留孤児のことも学び、実際に中国帰国者1世、2世の話を聴くなどして、50ページに及ぶレポートにまとめました。
そこには、それぞれの場面ごとに担任の先生からの問いが立てられ、それについて生徒たちが感じ、考えたことがびっしりと書き連ねられています。
この率直で瑞々しい反応。さらに文章にすることで思考が深まっていく姿が伝わってきます。
これでもかというほど畳みかけられる先生からの難しい問いに、彼らはいろいろな人の置かれた立ち場に寄り添い、時には為政者や国のあり方に異議を唱え、何より、人としてどうあるべきかを考えていきます。

この担任の先生のエネルギー!先生自身の学びの深さと、生徒たちへの思いの深さに感銘を受けます。
高校3年生。彼らが踏み出していく社会が自由で平和であるよう、この歴史と今を問い続けていこうと、思いを新たにしました。


# by kinen330 | 2022-10-02 16:51

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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