人気ブログランキング |

同じ日本人として

ハルビンの街なかにあった桃山在満国民学校。通称「桃山小学校」。
ロシア風の立派な建物で、今も学校として使われています。
かつて、そこに通っていて、終戦時には低学年だったという同窓会グループが来館されました。
そして、その桃山小学校で避難民生活を送った元青少年義勇軍の語り部Yさんと懇談の時を過ごされました。

終戦後のハルビン。
北満から避難民となった日本人が集結し、学校や官舎、兵舎などが収容所となりましたが、
劣悪な環境で大勢亡くなります。
桃山小学校でも、襲撃をうけて窓は壊され玄関の扉もなく、
吹きさらしの冷たいコンクリートの床で冬を迎えた人々が、
栄養失調や流行病で大勢亡くなりました。
Yさんの仲間たちもここで数十名命を落としました。

もともとハルビンの街に住んでいた日本人も命の危険にさらされていましたが、
引揚げるまで住居を確保できていた人たちもいました。
もちろん学校は閉鎖。
親たちは言いました。「学校に行ったら病気を移される。」
避難民の間で流行していた発疹チブス。
親であれば子どもに行かないよう言い聞かせたことでしょう。

終戦翌年の秋になってようやく引揚げ。
彼らは戦後になって、開拓団をはじめ自分たちと比べて
あまりに悲惨だった同朋の存在を知るのです。
「ずっと引っ掛かっていました。」
あまり苦労せず、家族全員無事で帰って来たことへの後ろめたさ。
「同じ日本人として何かできなかったのか」と。

Yさんに問いかけました。
「私たちのような日本人の存在を、Yさんはどう思っていますか。」
Yさんは答えました。
「日本へ帰りたいという思いは、同じだったと思います。」

一人ひとりが抱えている「満州」があります。






# by kinen330 | 2019-05-24 18:30

鴨緑江

「ここで生まれたらしいんです。」

神奈川県から女性1人の来館者、Sさん。
ゆっくり展示を見学し、証言映像の部屋ではうんうんとうなずきながら見入っておられます。
帰り際、「満州に何かご関係があるのですか」とお尋ねしたら
「ここで生まれたらしいんです。赤ちゃんの時に母親におんぶされて鴨緑江(おうりょくこう)を渡ったと聞いています。」

鴨緑江は中国と朝鮮半島の境に横たわり、
白頭山を水源に遼東半島の付け根、丹東まで注ぐ大河です。

ソ連侵攻、日本敗戦となり、満州にいた大勢の日本人が朝鮮半島へ逃げました。
祖国日本へ帰るため。少しでも近付くため。南へ、南へと。
鴨緑江へ来るまでに多くの人が力尽き、子どもを置いていったそうです。

引揚げて来た母親はSさんが中学2年生の時に若くして亡くなりました。
だから、あまり詳しいことは聴けなかったそうです。
ただ、親に反抗すると「鴨緑江で置いてくればよかった」と叱られました。
鴨緑江はSさんにとって特別な場所として刻まれていたのでしょう。
今になって分かります。命がけで自分を連れて来てくれた母親の苦労。
そして、届かない、感謝の思い。

「ぜひ来たかったんです。こういう施設ができてありがたい。」
胸がいっぱいの様子でした。

連休が終わり少し静かになった記念館。
この空間は亡き人と心でつながる場所でもあるのです。




# by kinen330 | 2019-05-09 20:00

覚えていてくれた

「語れなかったし、聴いてもくれませんでした」

昨日、愛知県からの団体に、語り部の久保田諫さんがお話しをされました。
壮絶な集団自決の話は、戦後の村の中ではタブーでした。
人々は新しい家庭を築き、社会は戦後の復興の道をひた走っていました。
久保田さんも、なかったことのように生活してきました。
あの記憶は、心の奥に封じてきました。

「覚えていてくれた」
平成28年、天皇皇后両陛下が記念館を訪問された時、
ある開拓団の人が感想を寄せてくれました。
兵隊でもないわたしたちの犠牲を・・・。

引揚者に対する社会の眼は、同情はあっても温かいものではありませんでした。
国策として進められたという背景がありながら
判断する情報を知らされなかったにもかかわらず
「好きで満州へ行ったんだろう」という自己責任論。
人々は口を閉ざし、社会も目を向けず、風化しつつあったのです。

人々の声を、思いを、どのように受け継ぐことができるのか。
私たちの社会はこの歴史に学ぶことができるのか。
問い続けていきます。





# by kinen330 | 2019-04-30 12:29

心の中のどろどろしたもの

「逃避行の途中、暴徒に見つからないように泣き止まない赤ちゃんの首を絞める役を頼まれた
民ちゃんは、その後、罪悪感にさいなまれて団を離れていったんですよ。」
民ちゃんはそのまま日本に帰ってくることはありませんでした。

ときどき記念館に来ては、来館者に展示案内をしてくださる元開拓団のKさん、86歳。
現地住民からの襲撃や3週間もの逃避行、収容所生活で6割以上が犠牲となった開拓団で、
ご自身も残留孤児となり、昭和33年、集団引揚げ最後の年にようやく帰国しました。
自分の体験だけでなく、あの人、この人、同級生の〇〇くん、〇〇さんの話・・・。
どれもこれもが悲惨な話で「不都合な史実」です。

Kさんの開拓団が入植した場所はもともと抗日感情の激しい地域で、
農地も家屋も二束三文で現地の人から買い上げたものでした。
なぜ自分たちがそのようなやり方でそこに入植しなければならなかったのか。
時に中国語で書かれた文献も辿りながら、ひとり悶々と研究してきました。
子どもながらに「五族協和」といいながらあからさまな差別が存在していたことを見てきました。
収容所生活では極限に置かれた人間の非情や狂気も見てきました。
戦後は「団の恥をさらすな」と団の幹部たちから口封じを受けていました。

「心の中にどろどろしたものがあるんです。」
そう自覚しながら、歴史を伝える生き証人として記念館に来てくれます。
その小さな肩にどれほどのものを背負っているのだろうか。
心の中のどろどろしたものが洗い流される時は来るのだろうか。

どうか、Kさんの話に耳を傾けてほしい。
あなたの時間を少し分けてほしい。
展示案内をする後ろ姿を祈る思いで見ています。




# by kinen330 | 2019-04-14 19:51

復学の道

青少年義勇軍幹部候補生だったTさんは、終戦の前年に召集されシベリアに3年抑留された。
帰還したときには両親は亡くなっており、兄弟も散り散りになっていた。
帰る家もなく、迎えてくれる親もいない。

2年間は寺の軒先に野宿しながら炭坑の日雇い夫などして放浪生活。
そんな時、国内の大学へ復学ができるという知らせがくる。
満州で開拓指導員訓練所の獣医師養成コースにいたTさん。
地方の国立大学獣医学部に編入学。24歳からの再出発だった。

ほかの仲間たちの多くは、帰国後やはり炭坑夫になったり、農業に帰っていった。
みな、食べていくこと、目の前の生活に必死だった。
また「復員してきた若い男性は当時ひっぱりだこだったんだよ~」と、
親がすすめる結婚で早々に家庭を持つ人も多かった。

晩年になって、動物病院経営で大成功を収めたTさんを仲間たちは羨ましがった。
「俺は帰る家も迎えてくれる親もいなかったから。」
その寂しさと貧しさをバネにして生きてきた。

復学に尽力してくれた人物は、満州の訓練所の副所長だったS先生。
S先生はTさんが出征する時に「生きて帰れよ」と言ったという。
Tさんはこの人を人生の恩人として敬い続けている。


# by kinen330 | 2019-04-07 15:05

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


by kinen330
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る