人気ブログランキング |

開拓団は

「もっと早い段階で避難させてくれていたら
 全員ではなかったにしても助かったはずなんです」

語り部のMさん。
国策とはいえ、開拓団は自分の意思で行ったのだといつもおっしゃいます。
「明日ではなく今日食べるものに困っていた」というMさん一家。
父親は土木作業員でしたが、鉄道もダムも完成して仕事がなく、
母親の反対を押し切って満州へ渡りました。
だから、まわりのせいではないと。

ソ連侵攻の報を聞いても「関東軍が守っているんだからそんなに早く入って来るわけがない」と
父親は信じて疑いませんでした。
しかし「櫛の歯が欠けるように」いなくなっていた関東軍。
松花江の警備部隊であった満州国軍の「江上軍」も反旗を翻し、
現地の「満人」からも報復をうけます。
「助けを求めるところもない。やられっぱなし。」
逃げ場のない開拓団。7割以上が亡くなります。
Mさんの父親も、極寒の収容所で息絶えました。

満州へ行ったのは誰のせいでもない、父親の意思だったというMさん。
でもやはり納得できないのは、
同じ日本人でも、情報をいち早く得て帰国できた人もいたということ。
開拓団は見捨てられたー。

昭和20年当時、旧満州に居留していた一般邦人は開拓団27万人を含む約155万人。
そのうち約24万5千人が亡くなり、そのうち約8万人が開拓団なのです。
もっと早い段階で戦況が分かっていれば。

隣りで語るMさんの体の内にこもったままでいる怒りの熱を感じながら
後の時代にどんな弁明や理屈があろうとも
この怒りの感情を忘れないでいようと自分に言い聞かせました。


# by kinen330 | 2019-03-20 20:17

上等兵もねえもんだ

♪~人のいやがる軍隊に 志願してくるバカもある 
  朝もはよから起こされて 金の食器に金の箸
  仏様でもあるまいに 一膳めしとは情けなや~♪

久しぶりに竹ちゃんがやってきました。
昭和2年生まれの元義勇軍。
今日は軍歌の替え歌を2曲披露してくれました。

♪~彼女を思う一念に ラブを一通書いたなら
  中隊本部で見つけられ 叱られるこの身の哀れさよ~♪

竹ちゃんは、まだ訓練中だった昭和19年11月、
「軍勤」=軍の勤労奉仕という名目で国境守備隊9832部隊に移動。
その本隊は昭和20年の春に「俺たちを置いて南方へ行っちまった。」
ソ連侵攻後の死線を越えて、シベリアへ抑留。
昭和23年12月、舞鶴へ引き揚げた時に名簿で確認すると
9832部隊の上等兵になっていました。

「上等兵もねえもんだ」
終戦時の措置で2階級昇進。もっとも、軍人になったつもりはありませんでした。
そして、戦後は在籍年数不足で軍人恩給はありませんでした。

自嘲気味に歌うその歌詞を聞き、思わずメモしました。
当時の人々もただただ「お国のため」だけではなかったのだと、
替え歌などを歌って憂さを晴らしていたのだと、
戦争中に貴い青春時代を送った若者たちを想像しながら
目の前の老いた竹ちゃんをいとおしく思うのでした。



# by kinen330 | 2019-02-22 19:08

もう一人の兄さん

「親父は自分の子どもを亡くすよりよっぽど辛かったと思います」

Nさんは昭和15年に開拓団として満州へ渡りました。まだ6歳でした。
両親と姉2人、兄1人。
途中で父親の姉の息子、Nさんには従兄にあたる少年も故郷からやってきました。
開拓団で独り立ちするまでNさん一家が預かることになっていたそうです。
10ほど年上で、Nさんにとってはもう一人の「兄さん」でした。

しかし、敗戦後の混乱の中、開拓団の一部の集団自決の場に居合わせてしまい、亡くなります。

Nさん一家はその後の収容所生活などを乗り越え、全員無事に引き揚げてきましたが、

「親父は亡くなったことをどのように伝えたのか・・・。
 自分の子どもを亡くすよりよっぽど辛かったと思います。
 親父は生涯、このことを背負って生きていたと思います。」

# by kinen330 | 2018-12-08 19:17

共に怒る

某県M市からはるばる来てくださったOさん。
M市職員で、今年の春から中国帰国者支援の担当になりました。
そこで初めて帰国者の方々から直接体験談をお聴きし、衝撃を受けたそうです。
そして、歴史を学ぶために記念館にぜひ行きたいと思っていたとのこと。

帰国者本人だけでなく2世や3世の人たちが抱える問題も深刻だそうです。
残留孤児、残留婦人と一緒に日本へ来た子どもや孫世代。
中には40代、50代になってからの人たちもいます。
「その年齢になってから日本語を覚えるって、大変ですよねぇ」と
自分のことのように話されます。

中国帰国者の背景にあった歴史を知らない日本社会。
中国への印象が決して良いとはいえない日本社会。
いろいろな無理が蓄積したのでしょう、精神的な病を抱える人も少なくないそうです。

ある時、M市内の病院の医者からこんな電話が。
「言ってることが分からないんだよ。あの人、日本人なんだろう?」
日本語が通じない帰国者の患者の診療に困ったという相談(クレーム?)でした。
「腹が立って・・・」
心無いその医者の言葉に怒るOさん。
通訳が同行できることを伝えましたが、やりきれない思いが残っています。

たまたま配属された部署で出会った中国帰国者という人々。
きっと3年くらいで他の部署へ異動になりますが、
「せっかくの機会ですから」と笑顔で帰って行かれました。

Oさんのように共に怒り、共に喜ぶ人が1人でもいてくれることが
地域の帰国者の皆さんの支えになるのではないかと思います。
そして、その1人を増やしていくために記念館はあるのだと思います。



# by kinen330 | 2018-11-25 15:01

残された家

「満州に行った人の家に住んでいたんですよ。だからこの歴史は気になっていました。」

団体さんに展示の案内をしている途中、一人の男性がため息混じりにおっしゃいました。
思わず口に出た、という様子でした。
住んでいた家が火事になり、移り住んだ家が開拓団として満州へ行った人の家だったそうです。

開拓団は移民でした。
満州で生きていく決断をした人たちです。
家や土地は処分していきました。
家は人手に渡ったり、壊されて畑になったり。
そのため、引揚げてきた時には帰る家はありませんでしたし、
生きて帰ってこられた人ばかりではありませんでした。

展示に見る逃避行、集団自決、収容所生活、引揚げ、残留・・・。

「その人たちはどうなったのか・・・」
見ず知らずの一家に思いを馳せておられました。
いろいろな「満州」があるのだなと思いました。



# by kinen330 | 2018-11-10 12:10

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


by kinen330
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る