遠く中国から

「日本の人たちは、あたたかく見守ってほしい」

中国黒竜江省ハルピンに「中国養父母連絡会」というボランティア団体があります。
日本人孤児を育てた養父母の支援をしている団体で、昨日、代表の胡暁慧さんが来館され、飯田市で講演をされました。

養父母たちは自分の生活も厳しい状況の中で日本の子どもたちを引き取って育てました。
そして、祖国日本の本当の家族のもとへ帰っていく“我が子”を断腸の思いで送り出しました。
日本へ帰った残留孤児・帰国者たちの多くは自分の生活が精一杯で、養父母のことを顧みる余裕がありませんでした。
残された養父母達の喪失感・孤独ははかり知れません。
それでも、遠く中国から“我が子”の幸せを祈っていたのでしょう。

そのような年老いた養父母を精神的に支えたのが「養父母連絡会」でした。
「他人の子ども、日本人の子どもを引き取ることは、強く優しい気持ちがなければできないこと。私は彼らを尊敬している」とおっしゃいます。
胡さんはこのボランティア活動を34年間続けてこられました。
戦後70年以上が経過し、養父母たちも多くは亡くなっています。
でも、まだ心残りがあると言います。

ひとつは、いまだに「中国残留日本人孤児」であることが認定されず、調査にも至っていない“残された人たち”がいること。彼らに日本を見せてあげたい。
そして、日本に帰っても差別を受け苦しんでいる孤児たちがいることです。
「日本の人たちはあたたかく見守ってほしい。社会に溶け込めるよう、関係者の協力をお願いしたい」と。

今でも、遠く中国から日本に帰国した孤児たちのことを案じている人がいることに、胸が熱くなりました。
この思いに少しでも応えたいと思います。







# by kinen330 | 2018-05-03 14:56

幸せとは

「私たちのような若い人たちに伝えたいことがあればお願いします。」

女子短大の学生さんたちが今年も来てくれました。
介護福祉の勉強をしている皆さんです。

語り部のおばあちゃまHさんのお話しのあと、このような質問がでました。
そこでHさん、
「自分は大事な人間だということを信じてください。それが幸せになることだと思います」と。
Hさんは自分よりも親が言うことを信じて大人になったと言います。
大人が言うこと。国が言うことを信じた・・・。

3人の子どもを育て上げ、今はひとり暮らしのHさん。
自分だけの食事は作り甲斐がないよ、と笑います。
83歳の今でも時々、近くの養護老人施設へボランティアに行きます。

「ひとのために尽くすことは幸せです。
 みなさん、介護の仕事を選んでくれてありがとう。
 私もいつかお世話になるかも知れません。」

いろいろなことを乗り越えてきたHさんの言葉を
若い人たちはどう受けとめたでしょうか。



# by kinen330 | 2018-04-28 11:55

あきらめきれない

「どうしてもあきらめきれなくて。何か手掛かりがあるんじゃないかって。」

80歳前後の姉妹が車で2時間以上かけて来てくださいました。
お兄さんが昭和20年の3月、18歳で満州へ行き、そのまま消息不明。
官吏のような仕事だったそうで、当時、満州から来た手紙に「東安」という地名が書かれていたことだけは覚えているとのこと。
開拓団ではないので記念館では名簿もなく、お力になれません。

戦後、公報(死亡告知書)を受けとるように役場から何度も連絡がありました。
両親は拒み続け、だいぶ後になってからお葬式を出しました。
お墓には「昭和20年8月9日」と刻まれています。ソ連侵攻の日です。

妹さんは「いつまでもこだわっていないで忘れろ」と言います。
でも、お姉さんの方はどうしても納得ができずにいました。

敗戦の混乱の中、満州では大勢の人が消息不明となり、
戦後「未帰還者特別措置法」で死亡宣告を受けています。
最期を見届けた人もなく、当然遺骨も何もありません。
納得いくはずがありません。

ぽろぽろとこぼれる涙。

忘れなくていいと思います。
納得しなくていいと思います。
お兄さんのための涙は、戦争への怒りの涙。
個人の生死も尊重されない、尊厳を奪われるのが戦争であり
その事実を容認してはいけないのだと思います。















# by kinen330 | 2018-04-08 19:26

おおばこ

「自責の念にかられています。家族全員帰ってこれたんです。」

受付でいきなりこのようにおっしゃるIさん。
終戦の時は5歳でした。
父親は昭和7年に渡満。軍属でした。
「はじめのうちはいい生活だったそうです。いばっていたんでしょう。」
自嘲気味におっしゃいます。
途中から「新京畜産獣医大学」に希望して移り、軍馬の飼育に携わったそうです。
そこでは現地の人たちとも仲良くやっていて、
ソ連侵攻後はかくまってもらい、
戦後も文通を続けていました。
国交正常化前に亡くなってしまい、再会は叶わなかったそうです。

少年だったIさんにも引揚げ時の断片的な記憶が残っています。
溜まった泥水でおおばこをゆすいで食べたこと。
「内地が見えたぞ」とみんなが沸き立った時、
その引揚げ船から海に飛び込む人がいたこと。
望まない妊娠をしていた女性だったことを後で知ります。
降り立ったのは博多港でした。
戦後70年の節目の年、奥さまと博多港に行ってきたそうです。

複雑な思いが去来する「満州」。
「この歴史をぜひ伝えていってください。また来ます。」
目を赤くして帰って行かれました。







# by kinen330 | 2018-04-06 19:36

知らなかったことのショック

「私たちはこの歴史をどうして知らないのでしょうか」

先日、10人ほどのグループをガイドし終わった時、ある男性が言いました。
その通りです。
この率直な疑問に、大いに共感します。

男性は続けました。
「この歴史はごく一部の研究者たちの中では知られていたことなのでしょう。
 でも多くの人たちは知らない。
 どうしてなんでしょうか。 
 私は日本の教育に問題があるんだと思います。
 ・・・
 だから、このような記念館は貴重です。」

この記念館の展示も歴史のごく一部であり、不完全です。
満蒙開拓の歴史は広くて深くて複雑で、私たちも
まだ知らないことや検証しきれていないことがたくさんあります。
でも、ここにこのような場所があり、不完全だからこそ
これからも学び続け考え続ける必要が生まれるのだと思います。
満蒙開拓とは何だったのか。
そこから見えてくる私たちの社会とはどのようなものなのか。

知らなかったことのショック。
そこから始まる。そこが原点になるのだと思います。






# by kinen330 | 2018-03-05 19:31

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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