白樺の丸太板

「昭和十九年一月 満洲 小姑舎訓練所 
 一少年訓練生 この白樺をひいて我がためにもち来たる
 姓も名も不詳」

兵庫県にお住まいのNさんから、古い白樺の丸太板を寄贈いただきました。
直径30㎝、厚さ3㎝。
Nさんの父親が満州から持ち帰ったもので、
戦後しばらくして片面に文章をしたためたようです。

父親は教師で青少年義勇軍の送出に関わりました。
当時、教師たちは送り出した教え子たちの激励と視察を兼ねて
満州の訓練所を訪問していました。
昭和19年。訪問した訓練所で、名も知らぬ少年が記念に持ち帰ってほしいと
わざわざ山から切って持ってきたのだそうです。

戦後、満州や義勇軍のことはほとんどしゃべらなかった父親。
でもこの板はずっと玄関に置いてありました。

「お父さんはどんな思いでこの板をとっておいたのでしょう」
「自責の念だったんじゃないですか」

Nさんは批判もしたそうです。教師である父親の責任。
でもこの板は父親が亡くなっても、家を建て替えても、捨てられずにいました。

少年は何を思って渡したのでしょう。何を託したのでしょう。
彼が生きて帰って来たのかどうか、もちろん分かりません。

時空を越えて記念館にたどりついた白樺の丸太板。
ずしりと思い丸太板です。


# by kinen330 | 2018-02-08 19:08

消していた記憶

「記憶を消していたんです。
 消さないと生きていけなかったから。
 覚えていたら生きていけなかったから。」

昭和18年、Hさんは小学校に上がる春に満州へ渡りました。
父親は教師。母親は助産婦。
伯母さんが行った開拓団で助産婦がいなくて困っているという話があり
一家で行くことになりました。

そして、3年生の夏。ソ連侵攻。

Hさんは満州の記憶を消していましたが
50歳くらいになって体験談を書いてほしいと頼まれ
母親から当時の話を聞きました。
すると、消していた記憶が鮮やかによみがえってきました。

逃げ込んだコーリャン畑で、1メートル横を走っていた同級生が撃たれたこと。
川に流される子供の声。
「おかーちゃーん、たすけてー」と叫ぶ声。

40年間、消していた記憶でした。

人は、生きるために記憶を消し、またよみがえらせることもできる。
強烈な体験をした人にはあることなのかもしれません。
よみがえらせた時に、ともに向き合い支え合う人がそばにいてくれただろうか。
満州から帰ってきた人々の戦後に、思いを致します。






# by kinen330 | 2018-02-01 18:23

後の世の私たち

― 私の妻は子ども五名を手にかけて殺して居ります。

県外からのお問合せで調べものをしていて
約500人が服毒自決をした開拓団の回顧録に行き当たりました。
「われわれは死以外にない」
追い詰められた開拓団。
女たちは我が子に毒を飲ませ、自分も後を追う覚悟でした。

ー 生きて帰った彼女等はどんなにか自らを責め苦しみながら生きてきたことか。
  でも故国の人たちはいいます。
 「自分の命はそんなに惜しいものかなァ、五人の子どもを殺して自分だけ助かって。」
  妻は生きている間苦しみ通したと思います。

この文章の表題は「思い出したくないこと」。
回顧録は昭和57年に編さんされました。
早く忘れてしまいたい。思い出せというのも残酷だ。
でも、だからこそ後の世に書き残すべきではないだろうか、とあります。

最後の一文。
― しかし当事者でない平和の時代に生きる人たちがどれほど理解してくれるだろうか。

当事者でない私たちですが、その痛みに少しでも近づきたいと思います。
平和を学ぶということは、痛みを知ることなのかもしれません。




# by kinen330 | 2018-01-25 17:53

それ以外の道

「満州へ行かなかったら、この地域はどうなっていたのか。
 それ以外の道はなかったのか。
 間違いだったと終わらせたくない。」

一昨日、小中学校の先生方の研修が記念館で行われ、
このように話された先生がいました。

経済の打開策としての「満蒙開拓」。
村としても分村を出したら国から補助金が交付され、
過剰人口の解決、口減らしになる。
個人としても満州へ行けば広い土地が手に入る。

良かれと判断した末の「満蒙開拓」だった。

しかし、分村で開拓団を送出した村が豊かになっていたのか。

「間違いだったと終わらせたくない。」
なぜそのような判断をしたのか。
何に駆り立てられたのか。
何が間違いだったのか。
あの時は仕方がなかった、なのか。
この地域、この社会を創っていく子どもたちと一緒に
考えていきたいと思います。


# by kinen330 | 2018-01-14 19:12

あなたをたずねて

「私たち3姉妹なんです」

今日は仕事始めでした。
午後から女性3人の来館者。
父親が満州へ行っていたのでいつか記念館に来たかったとのこと。
お正月で3人揃ったのでしょうか。

名簿からお父さんは昭和18年に渡満した青少年義勇軍だったことが分かりました。
地図で見ると訓練所はハルピンよりもっと北。
「寒いところだった、とはよく聞きました」

終戦時は16歳。
南へ逃れ瀋陽で越冬したと記録にありました。
「発疹チフスでたくさん死んだって。父も罹ったんじゃないかと思います。
でも体が大きくて丈夫だったから、なんとか帰ってこれたんですね。
だから私たちがいるんですけど。」

学習ルームで名簿や写真集を見ながら、しばらく3人で語らっていました。

四男だったお父さんは帰国してからも苦労が続き、60歳の若さで亡くなられたそうです。
「苦労ばかりで。年金も貰えないまま逝ってしまいました」と。

記念館で満蒙開拓の歴史を知り、父親の足跡を辿った3姉妹。
「日本はたいへんなことをしたんですね」
「今は父親に感謝です」

この3人の娘さんたちをどんなに慈しみ育ててこられたでしょう。

今年もさまざまな人が行き交う記念館の様子を綴っていきます。








# by kinen330 | 2018-01-04 18:13

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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