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共振

今日、25歳の青年が一人でやってきました。
ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見て、とのこと。

戦火の下で少女が涙を流し
荷物を抱えた難民が国境を目指す。
このような歴史をまた繰り返すのは、何が原因か。
私たちが歩んできた社会、目指してきた社会は何が間違っているのか。
嘆くだけでなく、学び、考えたい。

青年を突き動かし記念館に向かわせたものとは。
彼の静かな怒りに共鳴し、私も震えている。


# by kinen330 | 2022-02-26 19:03

逃避行

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黒台信濃村開拓団 三石忠勇さんが描いたソ連侵攻時の逃避行の絵です。
この絵を使って小学6年生とオンラインでワークショップをした様子を
ホームページに紹介したところ 
親族が満州から引揚げてきたことを話に聴いているというYさんが
こたえを考えて送ってきてくれました。

1.女の子のセリフ…「お母さん、おしっこ」
2.お母さんの心の声…「歩きながらしなさい」

列から遅れてしまったらどうなるか分からない状況です。
とにかく遅れないように、ついて歩いていくしかなかった。
「歩けないと言われたら置いていくしかなかった。よう歩いてくれて、みんな日本に帰ってこれて良かった。」
3人の子どもを連れて歩いたお祖母さんはこのように話していたのだそうです。

人々は歩きながら排尿し、歩きながら眠り、子どもを産み、ひとを置き去りにし、
感情を失い、尊厳を失っていったのだと思います。



# by kinen330 | 2022-01-31 18:04

自転車をこぐ

昭和20年8月15日早朝。
新京へ出荷する野菜と一緒に、開拓団に残っていた男性5人が荷車に乗って出征していった。

その日は苦力(クーリー)たちと大根の追肥と除草作業をしていた。
昼過ぎ、一人のおばさんが血相を変えて畑へ駆け込んで来た。
「団長さんがよんでいる。」
慌てて本部へ行くと、「隣の開拓団から伝令が来て、日本が負けたという連絡があった。とても信じられないから行って確かめて来い。」

少年は、本部にあった自転車で吉林街道を西へ4キロ走る。
ラジオがあった隣の開拓団では、正午の玉音放送を聴いていた。
「日本が無条件降伏したことは間違いない。」
たいへんだ。
少年は元来た道を引き返す。一刻も早く知らせなければ。
自転車をこぐ。何度も往復した吉林街道。なだらかな上り坂がいつもより長く感じる。
こいでも、こいでも、進まない。気ばかりが焦る。
8月の太陽が照り付け、汗びっしょりになる。
「こんなことなら馬に乗ってくればよかった。」
放牧していた馬をつかまえて鞍をつけて準備するという手間を惜しんだために。
日本が負けた。
漠然とした動揺を幼い胸に抱え、少年は自転車をこぐ。

数日後、開拓団は集団自決。少年は一人生きて日本へ帰ってきた。

ああ、あの時、馬にしておけば・・・。
76年後の今でも、悔やまれるのだ。

# by kinen330 | 2021-11-28 19:15

日本に残った人たち

中学生からの質問の中には、中国残留孤児に関わるものも多く寄せられる。
「中国養父母は血のつながりもなく憎しみの対象にもなる日本人の子どもをどうして受け入れてくれたのですか」
「同じ中国人から非難されなかったのですか」
「日本に帰国できた人の中で、どれくらいの人が肉親に再会できたのですか」
「まだ日本に帰ってくることができない人もいるのですか」

戦争や国策に翻弄された人々の中でも、戦後も外地に残された人々がいたことに
子どもたちは衝撃を受けているのだ。
そんな中、先日、京都から修学旅行で来てくれた中学生の質問にハッとさせられた。
「中国に残った残留孤児と同じように、日本に残った外国の人もいたのですか」

「昭和25年12月末時点で在日外国人等の送還は約130万人であった」と厚生省編集の本にある。
一般労働者のほかに、連合国軍の捕虜、中国や朝鮮半島からの徴用などで
日本にも大勢の外国の人がいた。
特に、朝鮮半島からは日本の軍人として徴兵された人たちも大勢いた。
終戦後、GHQの指令により、日本政府はこれらの人々の祖国への送還業務をおこなう。
しかし、様々な事情で帰ることができない人もいた。
送還業務は昭和25年11月9日に終止符が打たれ、
残った人々は、在日外国人となった。
その人たちはその後、日本社会でどのような生活を送ったのだろうか。
日本社会はその人たちをどのように包摂していったのか、しなかったのか。

満蒙開拓の学びから、子どもたちの想像力は民族を越え、国境を越える。
そして、大切なことに気付かせてくれる。



# by kinen330 | 2021-11-03 19:44

じゃがいもの味

おいしいものをお腹いっぱい食べることができる現代の子どもたちも
「机の下に入って食べたじゃがいもの味」を想像することができます。

「みんなは白いご飯持ってくるもんでな。
 わしは引揚げてきた貧しい生活だもんでな。」
満州で家族を亡くし、妹2人を中国の人に預けたまま、
10歳で引揚げてきたアキラくん。
親戚の家へ預けられ、弁当は茹でたじゃがいもでした。
その味をたずねるワークショップです。

涙のしょっぱい味。
何の味もしなかった。
ただ食べるだけで精一杯。
お米と思って食べたからお米の味。
みじめな味。
苦い味。

今日は「甘い味」と言った男の子がいました。
小学6年生です。
「満州では食べるものがなかったと思うから。」
じゃがいもでも食べるものがあってありがたい。
そんな思いが「甘い味」という表現になったんだね。

想像力があれば、あの時代を自分に引き付けて考えることができます。
悲しみやくやしさ。
机の下に入って食べたじゃがいもの味。
自分ではない他者の心の痛みを想像する力。
想像力はあの時代だけでなく、今、同じ教室にいるあの子の思いにも近づくことができるはず。
その積み重ねで、社会をつくっていくことができればと思います。


# by kinen330 | 2021-10-27 19:24

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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