溢れ出る感情

20人の団体さんを案内しながら次のコーナーへ行こうとしたところで
「ちょっと、ここで私の話をさせてもらいます」と男性がいきなり話しはじめました。
「私は昭和12年生まれ。13年にここへ渡っていきました。」

その方は県内から分村で送出された開拓団の人でした。
まさに満州育ち。
溢れ出る感情をなんとか抑えながら、でも話さずにはいられない、という様子でした。

近くの川でたくさん魚がとれたこと。
学校は遠くて馬に乗って行ったこと。
冬には川が氷るのを待って、父親たちが遠くの山へ薪を採りに行ったこと。

引揚げ後は「満州人」と馬鹿にされたこと。
何か物がなくなると「満州人がとった」と言われたこと。

お仲間は初めて聴いたという顔でしたが、じっと耳を傾けていました。

収容所の絵の前に来た時は一瞬離れて行かれました。
溢れ出る感情を飲み込んで、口を真一文字に結んで、
離れたところから私の説明をうなずいて聞いていました。

蓋をしていた満州の記憶は記念館にくるとよみがえるのでしょう。
楽しかったこと。辛かったこと。言えないこと。
抑えてきた感情を受けとめる場所でありたいと思います。





# by kinen330 | 2018-03-02 19:50

これから

「今の私たちができることは、過去のことをもとにして、
 これからの私たちが態度で表すことだと思います。
 今を創る私たちは、過去を後悔するのではなく、
 悲しみや苦しみを背負って、
 これからを創っていくことだと私は思います。」

記念館を見学した阿智村の小学6年生の感想です。

子どもたちはやわらかい心で大切なことに気づき反応します。
歴史を学ぶことは、どのような「これから」を創っていくかを考えること。


# by kinen330 | 2018-02-22 19:03

白樺の丸太板

「昭和十九年一月 満洲 小姑舎訓練所 
 一少年訓練生 この白樺をひいて我がためにもち来たる
 姓も名も不詳」

兵庫県にお住まいのNさんから、古い白樺の丸太板を寄贈いただきました。
直径30㎝、厚さ3㎝。
Nさんの父親が満州から持ち帰ったもので、
戦後しばらくして片面に文章をしたためたようです。

父親は教師で青少年義勇軍の送出に関わりました。
当時、教師たちは送り出した教え子たちの激励と視察を兼ねて
満州の訓練所を訪問していました。
昭和19年。訪問した訓練所で、名も知らぬ少年が記念に持ち帰ってほしいと
わざわざ山から切って持ってきたのだそうです。

戦後、満州や義勇軍のことはほとんどしゃべらなかった父親。
でもこの板はずっと玄関に置いてありました。

「お父さんはどんな思いでこの板をとっておいたのでしょう」
「自責の念だったんじゃないですか」

Nさんは批判もしたそうです。教師である父親の責任。
でもこの板は父親が亡くなっても、家を建て替えても、捨てられずにいました。

少年は何を思って渡したのでしょう。何を託したのでしょう。
彼が生きて帰って来たのかどうか、もちろん分かりません。

時空を越えて記念館にたどりついた白樺の丸太板。
ずしりと思い丸太板です。


# by kinen330 | 2018-02-08 19:08

消していた記憶

「記憶を消していたんです。
 消さないと生きていけなかったから。
 覚えていたら生きていけなかったから。」

昭和18年、Hさんは小学校に上がる春に満州へ渡りました。
父親は教師。母親は助産婦。
伯母さんが行った開拓団で助産婦がいなくて困っているという話があり
一家で行くことになりました。

そして、3年生の夏。ソ連侵攻。

Hさんは満州の記憶を消していましたが
50歳くらいになって体験談を書いてほしいと頼まれ
母親から当時の話を聞きました。
すると、消していた記憶が鮮やかによみがえってきました。

逃げ込んだコーリャン畑で、1メートル横を走っていた同級生が撃たれたこと。
川に流される子供の声。
「おかーちゃーん、たすけてー」と叫ぶ声。

40年間、消していた記憶でした。

人は、生きるために記憶を消し、またよみがえらせることもできる。
強烈な体験をした人にはあることなのかもしれません。
よみがえらせた時に、ともに向き合い支え合う人がそばにいてくれただろうか。
満州から帰ってきた人々の戦後に、思いを致します。






# by kinen330 | 2018-02-01 18:23

後の世の私たち

― 私の妻は子ども五名を手にかけて殺して居ります。

県外からのお問合せで調べものをしていて
約500人が服毒自決をした開拓団の回顧録に行き当たりました。
「われわれは死以外にない」
追い詰められた開拓団。
女たちは我が子に毒を飲ませ、自分も後を追う覚悟でした。

ー 生きて帰った彼女等はどんなにか自らを責め苦しみながら生きてきたことか。
  でも故国の人たちはいいます。
 「自分の命はそんなに惜しいものかなァ、五人の子どもを殺して自分だけ助かって。」
  妻は生きている間苦しみ通したと思います。

この文章の表題は「思い出したくないこと」。
回顧録は昭和57年に編さんされました。
早く忘れてしまいたい。思い出せというのも残酷だ。
でも、だからこそ後の世に書き残すべきではないだろうか、とあります。

最後の一文。
― しかし当事者でない平和の時代に生きる人たちがどれほど理解してくれるだろうか。

当事者でない私たちですが、その痛みに少しでも近づきたいと思います。
平和を学ぶということは、痛みを知ることなのかもしれません。




# by kinen330 | 2018-01-25 17:53

満蒙開拓平和記念館の非公式ブログ。記念館にまつわるよもやま話を綴ります。


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